注⑴ 「井南居東西大家新作画展」『塔影』第11巻12号、塔影社、1935年12月⑵ 「切手と画伯と望遠鏡─太田聴雨『星をみる女性』─」『光友』7月号No.475、株式会社ニコン、⑶ 草薙奈津子「太田聴雨 その人と芸術」『太田聴雨作品集』太田多㐂子発行、1983年、p. 112⑷ 猪木卓二、豊田豊「太田聴雨」『現代日本画壇の精鋭』美術往来社、1935年⑸ 「展覧会めぐり」『たつみ』第12巻11号、1918年12月⑹ 太田聴雨「青邨先生のこと」『三彩』65号、三彩社、1954年12月⑺ 太田聴雨「私の抱負を語る」『三彩』44号、三彩社、1950年7月単色、色相環それぞれの色遣いと隈の、画中の適所への使い分けを見ることができる〔図18-a、b、c〕。ここまで、資料を基に過去の図録・作品集の制作年を見直し、その上で30年代前半までの制作を追ってきた。一般に、古径・靫彦が牽引した新古典主義的線描主体の画を自家薬籠中のものとした画家として評される聴雨は、確かにその方向へ進んで行ったが、土台をやり直そうと再起を決意した画業の再開はまず、青樹社時代以前の素養と課題を基にして歩み出された。線描の摂取と共に色彩の課題も並行して取り組まれて、昭和戦前期の画風に辿り至っている。《星をみる女性》で政府買い上げの栄誉を得、美術院の同人となって画家としての地歩を固めた1936年以降、聴雨はこの画風の洗練と同時に実景に取材した《瀧桜》(37年)や細密描の《山鳥》(38年)など、また新しい画境も探り始める。ここで触れるに至らなかった聴雨の文学的な主題への関心もしかり、30年代後期以降の制作についても今後考察を進めたい課題であり、引き続き研究を続けて行きたい。1990年本稿を成すにあたり、塩坪波つ美氏、塩坪幸博氏には多方面にわたりご助力をいただきました。並びに須賀川市立博物館、コレクションを遺されました故・林義人氏、故・和田憲昌氏、個人所蔵家の方々のご協力に心より御礼申し上げます。― 551 ―― 551 ―
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