にも近しい存在であった(注6)。前田旧蔵書には、岡本唐貴の名が書き込まれた『立体派の詩』(マツクス・ウエバア著、大正13年刊)と、「1925. 5. 2 村山知義氏よりおくらる」と書き込まれたエルンスト・トルラーの詩集『燕の書』(村山知義訳、岡田龍夫挿画、大正14年4月刊)がある。村山と岡田が与したマヴォについては後述するとして、まずは浅野や岡本と前田との交流の可能性を探ってみたい。浅野は前田の2回目の沖縄旅行(昭和15年)に同行しているが、二人の交流は遥か前に遡ると思われる。前衛詩人の竹中郁は、浅野と岡本の神戸の住居に関西学院の学生の常連としてよく遊びに行き(注7)、展覧会や詩誌の編集(注8)でも浅野や岡本と行動を共にしたが、その竹中と前田は通学仲間であった(注9)。淵上白陽が大正11年(1922)に神戸で創刊し、浅野と岡本も関わった(注10)前衛写真雑誌『白陽』は、前田の手にもあり、旧蔵資料に第5巻第2号(大正15年2月刊)の表紙が残されている。この号は白陽の弟子の寺島貞志郎(貞志)が装幀しており(注11)、裏表紙のカット〔図1〕は、前田が神戸高商の卒業アルバムに寄せた挿画〔図2〕と樹木の表現などが類似する。浅野と岡本は大正15年(1926)1月頃に帰京するが(注12)、浅野は昭和4年(1929)に大阪に転居し、終生大阪に暮らす(注13)。転居に先立つ昭和2年(1927)も「造型作品展覧会」や「新ロシヤ展」などで頻繁に来阪していたようだ。マヴォとの関わりに目を向けると、前田は「MAVO誌を手にし」(注14)、「村山知義のマヴォの運動が関西へ来るとそれを聴きに出かけた」(注15)と言われる。マヴォ同人で大正14年(1925)2月より関西に長期滞在した牧寿雄は(注16)、同年6月に神戸で個展「第一没落期作品展覧会」を開き、カフェ・ガスで同年同月開催の「グルップ造型展」に岡本、浅野、寺島とともに参加している(注17)。大正15年(1926)から翌年には、京都や大阪で舞台美術や染織に関する催事を、牧が主導したと言われるが(注18)、この頃に牧が著した『リノ版画集』が前田旧蔵書にもある(注19)。前田を商業美術へと導いたもの昭和2年(1927)3月に前田は神戸高商を卒業する。「近代広告に表はれたる色の震動」という題で卒業論文を書き(注20)、同年4月、松坂屋大阪店に入社した。松坂屋では宣伝部で看板制作やウィンドウ装飾に携わり、商業美術の技術を学んだ(注21)。同年末に徴兵されるが、兵役の合間に平塚運一の『版画の技法』(昭和2年刊)を手に独学で版画を制作。生涯を通じて主要な技法となるリノカットは、この頃に始― 44 ―― 44 ―
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