まった(注22)。昭和3年(1928)11月に除隊して松坂屋に復職するが、翌4年4月の春陽会入選を機に版画家を志す。同年7月に松坂屋を退社すると、生活面を心配した義兄が、自ら創業した宣伝広告印刷会社「青雲社」に前田を雇った。ここで広告図案を担当した前田は、商業印刷に開眼。印刷物のコラージュを外注で機械印刷したり〔図3〕(注23)、リノカットに写真製版を取り入れるなど〔図4〕、作品制作にも勤務経験を活かした。前田の商業美術との関わりの背景には、商業学校出身であることや、同時代の大阪や関西における商業美術や印刷業界の発展もあるが(注24)、大正期新興美術運動からの影響も大きい。商業美術家協会を大正15年(1926)に結成し、前田旧蔵書にもある『商業美術全集』(全24巻、昭和3-5年刊)を編集するなど、「商業美術」という語の創始者と目される浜田増治は、マヴォとつながりが深い(注25)。そのマヴォも大正12年(1923)の創立時から「講演会、劇、音楽会、雑誌の発行、その他をも試みる。ポスター、シヨオウヰンドー、書籍の装釘、舞台装置、各種の装飾、建築設計等をも引き受ける」と表明。大正14年(1925)より商業美術に急接近し、上述の『リノ版画集』などが生まれた(注26)。関東大震災直後に発足したバラック装飾社には、浅野孟府も参加している(注27)。大正期新興美術運動の商業美術への接近や、前田への影響については、百貨店などの店舗装飾や広告を中心に、忠あゆみが詳述している(注28)。橋爪節也は、前田と商業印刷との関わりを、当時の大阪の広告・印刷業界の文脈に置きつつ論じている(注29)。以下では橋爪の論考を補強すべく、前田と商業印刷との関わりについて、大正期新興美術運動からの影響に着目しつつ掘り下げてみたい。昭和8年(1933)に前田は、「今の私の制作態度」の一つが「あらゆる美術を押しのけてすばらしい発展の階段をたどる印刷美術を版画に応用すること」であると述べ、「応用すると言ふより印刷美術は広い意味での立派な版画なんですから」と続けている。この言葉は、前年に小野忠重らが結成した新版画集団の刊行物『新版画Leaflet』に前田が寄せたものである(注30)。後に小野は自著で、岡田龍夫によるリノカットの機械印刷への導入と、「たまたまMAVO誌を手にした」前田への影響に言及している(注31)。岡田のリノカット挿画による書籍として、前田旧蔵書にもある『燕の書』が大正14年(1925)4月に、萩原恭次郎の詩集『死刑宣告』が同年10月に刊行されたが、これらは挿画のリノリウム版が金属活字と一緒に印刷機で刷られている(注32)。岡田は『死刑宣告』の巻末に「印刷術の立体的断面 ─装幀・リノカット・紙面構成その他― 45 ―― 45 ―
元のページ ../index.html#58