る。本調査によって分類した資料は、未だ十全なかたちで活用できるようにはなっていないが、現在、国立国際美術館の資料室に正規なドキュメンテーションとして登録する手続きを進めている。以下の論考は、その資料から、間接的であるとは言え、導き出された一つのモデルケースとして提示するものである。1.純粋美術と応用美術戦後の日本においてインテリア・デザインという領域を一新させた倉俣史郎と彫刻家田中信太郎が最初に出会ったのは、1967年8~9月頃、倉俣がインテリア・デザインを手掛けた新宿2丁目のバー「サパークラブ・カッサドール」のオープニングに田中が出向いた時だった。同バーの室内装飾は、高松次郎によって「影」が壁面に描かれていたことが最大の特徴であった。その当時、田中は27才、倉俣は32才、田中は倉俣より5才程若かったとはいえ、美術大学等の教育課程を経ずに作品発表を開始し、1959年に「二紀展」に出品した作品が新聞の批評欄に掲載され、1960年から「読売アンデパンダン展」に出品し、同年「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」に参画し、若手作家として注目されていた。倉俣は、1956年に桑沢デザイン研究所リビングデザイン科を卒業後、株式会社三愛宣伝課で店舗設計等、1964年から株式会社松屋でインテリアデザインに携わり、1966年から自身のデザイン事務所を設立し、飲食店の内装などを手掛けた。その頃から異分野の表現者との協働作業を試行し、洋品店の天井部分をイラストレーターの宇野亜喜良に依頼する等、全く新しい商業空間を創出していた。田中は、1966年に東野芳明が企画した「色彩と空間展」(南画廊、東京)に選出される。同展趣旨は,「「美術とデザインの間」を敢えて提示する試みとして展開され」たものだった(注3) 。その東野による果敢な挑戦は「作品概念に関わる問題を提起し、ジャンルの溶解と協働の可能性をもたらした」(注4)。田中にそのような意識があったか否かを判断できる資料は限られているが、何より、同展に出品したプライマリー・ストラクチャーの特徴を兼ね備えた《ハート・モビールNo.1》〔図1〕という作品自体が、従来の美術作品に対する異議申立てであったろう。細い棒状のアクリル素材によってハート型の形態とオレンジ・イエロー・グリーンといった原色で彩色された同作品は「作品が単に見る者としずかに対応するのではなくて、見る者のなかに入りこみ、とりかこんでしまう“環エンバイラメント境”としての性格をもっていることである。」(注5)と、東野が指摘するその用語“環エンバイラメント境”は、単に海外の動向を取り入れた― 569 ―― 569 ―
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