鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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というレベルに留まらず、様々な芸術領域を横断する新たな概念として、その頃から喧伝されるようになる。田中が「色彩と空間」展で発表した作品は、そのような美術界の状況を予見するようなスタイルの中心に位置していた、といっても過言ではないだろう。2.田中信太郎の揺籃期先に述べてきたように、田中が美術界で活動する契機となったのは、高校を卒業した翌1959年に「二紀展」に入選し、その作品が朝日新聞の展評欄に東野によって取り上げられたことによる。同作品は海辺で拾ってきた朽ちた木材や千切れた漁網等によるアッサンブラージュ技法を用いていた。そのような廃品によって構成された作品が展覧会場を占領したのは1960年代の読売アンデパンダン展であった。特に、1960年3月、同展第12回展に出品されていた工藤哲巳の作品に対して、東野は「ガラクタの反芸術」と表現した。それ以来「反芸術」という用語が、このような新奇なスタイルの作品に対して広く用いられることになる。田中は、それらの新しいスタイルによる作品を展開する中心人物の一人であった篠原有司男に見込まれ、篠原等が中心となって誕生した「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」(以下、「ネオ・ダダ」と記載)という前衛美術グループに参画する。アカデミックなシステムに則り美術を学ぶという過程を経ずに美術作家として活動を始めていた田中にとって、この「ネオ・ダダ」への参加は、様々な意味で学びの場であった。「ネオ・ダダ」を構成する者たちは、その多くが美大や芸大を卒業し、美術に関わる知識や経験を持っていた。彼らが集った「ホワイトハウス」(注6)には、田中を評価した東野芳明のような評論家、さらには演劇や音楽やファッションに関わる者たちなど、芸術文化全般にわたって知見を闘わす梁山泊になっていた。田中がそこで経験した一つ一つの事例を挙げるのは難しいが、例えば、いつの頃からか、田中は文化的事象や人生に対するシニカルな短句を発するようになっていた。例えば「「マルドロールの歌」はだれが謳うシャンソンなんですか。」(注7)といったような句である。いささか、反語的になるが、このような警句から、田中が諸先輩から様々な思想体系や美術潮流の用語を聞きかじり、その意味を何らかの典拠によって突き止め、補正しながら知識を積み重ねていったであろうことを窺い知ることができるのである。3.田中信太郎の新たなスタイル1963年初頭、「ネオ・ダダ」グループの活動が休止した翌年、篠原の呼びかけによっ― 570 ―― 570 ―

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