て始まった「グループSWEET展」の第2回展(1963年4月、新宿第一画廊、東京)で、《音楽》というタイトルのおもちゃのピアノの上に白く塗られた複数のやかんが配置された作品、さらには、同年7月「不在の部屋」展(内科画廊、東京)では《蓄音機Ⅰ》《蓄音機Ⅱ》を出品している(注8)。田中のそれらの作品は純然たるオブジェ作品ではなく、おそらくはサウンド・オブジェに分類することができる作品であった。というのは、1964年6月に東京・椿近代画廊で開催した「オフ・ミューゼアム展」で出品した田中の作品に対して篠原有司男が「蓄音機にセットされ悲鳴をあげるガラスの円盤」といった短評を施していることから推測できる(注9)。1965年12月、田中は最初の個展(椿近代画廊、東京)で、トランプ(カード・ゲーム)のマーク、ダイヤ、ハート等の形体の一部を描いたミニマルなスタイルの絵画を発表する(注10)。続けて翌1966年5月の個展では再度トランプのマークの一部を立体化し、平面の上に取り付けたプライマリー・ストラクチャー・スタイルの作品を発表した(注11)〔図2〕。ネオ・ダダの作家たちの狂騒的な表現から距離を取ることを意識した田中は、「ネオ・ダダ」の活動休止(1962年前半)後、新たな表現を模索し、ミニマルな表現スタイルによってデビューを選択したのである。田中のそのような展開を評価したのは再び東野芳明だった。本論冒頭部で触れたように、東野によって企画された「色彩と空間展」に招待されたのである。4.倉俣史朗のインテリアデザイン60年代の日本の美術界で、デザインと美術が協働することによって誕生した重要作品の一つが、倉俣史朗デザインによる空間に高松次郎が「影」を描いて出来上がった、本論冒頭部でも述べた《サパークラブ・カッサドール》(1967)〔図3、4〕という仕事である。しかしながら、記録された写真等を見る限り《サパークラブ・カッサドール》のインテリア・デザインが特に優れているようには見えない。その後の倉俣の店舗設計と比較した時に、設置された椅子やテーブル、照明などに特段の工夫を見ることはできないのである。しかしながら、それでも《サパークラブ・カッサドール》が倉俣の代表的な作品として取り上げられるのは、高松の「影」の存在によるものであろう(注12)。サパークラブ《カッサドール》がオープンした当時、「影」作品に関する高松自身による発言がある。「僕の影は、影が大事なのではなくて、一つの“物が無いぞ”ということを出すために、アリバイとして出しているのです。」(注13)田中は、高松に誘われて《カッサドール》がオープンした夜に訪れ、倉俣と出会い、― 571 ―― 571 ―
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