鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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それ以降途切れずに親交を持つことになる(注14)。田中は倉俣に対して性格などの気質に対して好感を持ったと述懐しているが、およそ1年前に東京画廊で体感した高松の影が投影されたように見える展示空間が、再度、目の前に現れた状況に、言葉を失うような衝撃と憔悴のようなものを感じると同時に、そのような特別な贈り物を与えてくれた人物に対して、特別な関係性を感じ取ったと考えることもできるだろう。5.田中の制作論理と倉俣の設計思想《カッサドール》を訪れた1967年夏以降、田中には多忙な日々が待ち受けていた。10月に宇部市の「第2回現代日本彫刻展」でモビール作品を発表し、同月、横浜市の「今日の作家展 ’67年展」では大サイズのミニマルな絵画作品を4点出品する。11月には「第4回長岡現代美術館賞」展では宇部とは別のモビール作品を発表した。続けて1968年4月にはジャパン・アート・フェスティヴァル出品作公募でミニマルな絵画を出品し、大賞を受賞している。田中は1968年の上半期、倉俣と協働作品を試みている。先ず、西武百貨店渋谷店にできた商業施設「アヴァンギャルドショップ・カプセル」で、透明のカプセルに商品(衣類)を封入し、巨大なスプリングの上に座面を設けた椅子を設計するといった手法を試みた〔図5〕。2人の認識としては、当時封切られたばかりのスタンリー・キューブリックによる『2001年宇宙の旅』のような近未来的空間作りを模索したようである(注15)。1968年は田中にとって前年以上に重要な作品の発表が重なる。5月には「第8回現代日本美術展」で、蛍光灯を周囲にはめ込んだ3連の巨大なミニマル絵画《マイナー・アートA.B.C.》〔図6〕を出品し優秀賞を受賞する。8月には「現代美術の動向展」(京都国立近代美術館)にモビール作品を出品する。そして10月は、「神戸須磨離宮公園現代彫刻展」に蛍光管を垂直に12m重ねて屹立させた《マイナー・アート ピサ》〔図7〕を出品し、兵庫県知事賞を受賞する。以上の様に、作品様式としてはミニマルな方法論を維持してきたとはいえ、作品の巨大化という物理的な条件も重なり、物質感の伴わない概念的にもミニマルな表現への欲求が、田中の中に生じていただろう。蛍光管を用いた巨大な2つの作品を制作し、それらの発表に続けて個展開催が予定されていた東京画廊は(注16)、高松が2年前に《アイデンティフィケーション》〔図8〕という虚空間を生み出した場所であった。さらに、あろうことかその1年後、《カッサドール》という酒場で田中は再び高松の虚空間を体験したことは既述してきた通りである。― 572 ―― 572 ―

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