鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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注⑴ 「二人の田中信太郎」『田中信太郎─饒舌と沈黙のカノン』展カタログ、国立国際美術館2001年、34-38頁。「最後に望んだ表現─追悼 田中信太郎─」『月刊アートコレクターズ』2019年11月、58-59頁。「マルドロールの歌が聞こえる。」『田中信太郎展「風景は垂直にやってくる」』展カ田中は空間表現の原点に立ち戻る行動を取った。高松が、時系列に「点」、「紐」、「影」と展開していったことに対して、田中は、同時に一個の空間の中で「点・線・面」を現出させることを思いついたである。田中は高松とは異なり、その論理を叙述するようなことはしない。とはいえ田中の作品に思考が無いということでは勿論ない。後年、田中は自身の作品を生み出すシステムを吐露している。「ぎりぎりまで頭の中で完成度を高くしていって、バーンとやるっていうのが、自分流」と発言している(注17)。そのような切迫した状況が、極限状態に達した時に、東京画廊での個展「点・線・面」の出品作品の構図が成立したのだろう。同作品は、ハロゲン光による「点」、ピアノ線による「線」、透明ガラス「板」による面、という展覧会タイトルを成立させるための最小限の要素によって構成されたのである〔図9〕。倉俣と田中の協働が1968年に始まったことを先に指摘してきた。そして、同時期のいくつかの倉俣のミニマルな空間表現のインテリア・デザインは、確かに田中の《マイナー・アートA.B.C.》や《点・線・面》との関係性を考えることができる。例えば、タカラ堂(宝飾店)の透明ガラスを多用した空間、エドワード(服飾)本社ビル・ショールーム中央に林立する蛍光灯等である〔図10〕。これらのインテリア・デザインは倉俣の作品として記録され、田中との協働作業とはされていない。それにはいくつかの理由が考えられる。まず、この時期、協働作業を行うための時間が田中には残されていなかった。この時期に限らず1970年代を通して、田中は国内外の展覧会や個展を成立させる必要があった。そして、何よりも田中が《カッサドール》に於ける高松の「影」の使用による倉俣の方法論、自らを消し去って高松の「影」の効果だけを考えて設計した空間に、究極的な思想を見出したと類推するのである。倉俣のデザインワークを通して「不在の存在」を感得しただろう。全てを《カッサドール》の空間との出会いに帰することはできないが、田中自身にも、精神的にそのような思考が備わった重要な要因の一つが《カッサドール》の空間だったのである。最後になったが、今回の調査を通じて、研究を重ねてきた田中信太郎の芸術の在り方に新たな視点を確認することができた。また、本報告書がデザインと美術といった異なる領域の関係についての考察を促す端緒となることを願っている。― 573 ―― 573 ―

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