鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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⑽ 三木多聞、月評|東京、美術手帖1966年2月号、119-120頁。エルズワース・ケリーの作品を新聞で見たことが同作品を描く大きな働きかけとなったと田中自身が後日述べている。(田中信太郎、光田由里(インタヴュアー)『Shintaro TANAKA』(「田中信太郎 岡崎乾二郎 中原浩大「かたちの発語」展カタログ、BankART1929、2014、166頁。)⑿ 篠塚光政、近藤康夫、榎本文夫「展覧会が十倍楽しくなるガイダンスー倉俣史朗とエットレ・ソットサスの仕事」『倉俣史朗読本』(21_21 DESIGN SIGHT 企画展「倉俣史朗とエットレ・ソットサス」レクチャー編)株式会社ADP発行、2012年7月、25頁。倉俣作品の撮影を長年撮り続けている篠塚の発言。⑵ 倉俣史朗から田中信太郎に宛てた当該書簡は、田中の遺族を通じて倉俣の遺族に伝わり、倉俣史朗の個展に出品されることになった(『倉俣史朗のデザイン─記憶の中の小宇宙』世田谷美術館他、2023-24年)。同展図録に当該書簡が図版として掲載され、またその書簡の内容について同展企画者による論文が寄稿された。(野田尚稔「倉俣史朗のデザインの青春時代」同展カタログ、256-263頁。⑶ 伊村靖子「1960年代日本美術における「デザイン」の意義について─「色彩と空間」展(1966年)がもたらした議論を中心に─」『デザイン理論』2012年60号96頁。尚、「美術とデザインの間」は同展パンフレットに東野が記載した文書のタイトルである。⑷ 同上。97頁。⑸ 東野芳明「色彩と空間展より」『ジャパン・インテリア』No.44(1966年11月号)60頁。⑹ 「ホワイト・ハウス」とは吉村が高校時代から親交の深かった磯崎新が設計した吉村のアトリエ兼住居である。当時東大大学院丹下健三研究室に在籍していた磯崎が、ル・コルビュジエのシトロアン型住宅を応用して、3間立法(およそ5.5㎥)の空間を基準として設計された。(磯崎新、𠮷村益信、赤瀬川原平、藤森照信「「新宿ホワイトハウス」を巡って」『新建築』2011年4月号、pp. 42-49)。⑺ 田中信太郎 1959年 “春”『’96ネオ・ダダの現在 破壊/再生』展カタログ(佐野画廊1997年2月、頁無し)尚、今回の調査で、田中が著した文書が数多くあることが分かった。それらが執筆された時期等の情報は乏しいが、将来的には適切な分類方法によって研究者が閲覧できるようにしたい。⑻ 『’95ネオ・ダダ<一断面展>─記録写真を中心に─』(大分市教育委員会)1995年に掲載の「年⑼ 篠原有司男「NEW POP NEW JUNK NEW TOY OFF MUSEUM」『美術ジャーナル』49号12⑾ 三木多聞、月評|東京、美術手帖1966年7月号、136頁。三木の記事ではハードエッジによる平面作品を発表しているように記載されてあるが、上記インタヴューによる田中の発言ではプライマリー・ストラクチャースタイルの作品を発表したようだ。⒀ 高松次郎、中西夏之、三木富雄、針生一郎(司会)「現代日本美術の底流」[座談会]『美術ジャー⒁ 田中信太郎、保坂健二朗(進行)「アート・インスパイア・デザイン」『倉俣史朗読本』(21_21 DESIGN SIGHT 企画展「倉俣史朗とエットレ・ソットサス」レクチャー編)株式会社ADP発行、2012年7月、331頁。⒂ 田中信太郎、保坂健二朗(進行)、上掲書、333頁。/「アヴァンギャルドショップ<カプセル>」タログ、2020年、53-55頁。表」を参照した。頁。ナル』No.56、1966年、14頁より高松の発言。― 574 ―― 574 ―

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