─」と題する小文を寄せ、同書の挿画や紙面デザインは「印刷術に依る総合運動」の試みであると述べている。昭和3年(1928)には、岡田はリノカットによるポスターや看板の制作も試みている(注33)。『死刑宣告』については、刊行の翌月に出版記念会が「マヴォ関西支部」の主催で神戸・湊川神社前のカフェ・ブラジルにて開催された(注34)。牧寿雄によると、この会には牧とともに「寺島貞四ママ郎」も参加したとのことで(注35)、前田との縁が示唆される。岡田と違い前田は、写真製版を先に刷ったことが旧蔵資料から分かるが〔図5〕、版画と印刷を同じ地平に置く考え方は岡田に通じる。旧蔵資料に見る、商業美術との関わり商業美術に関連して、前田は実際に何を手掛け、どのような活動をしたのか。旧蔵資料から伺える最初期の例は、青雲社での仕事である。昭和4年(1929)に前田が入社した青雲社は、前田の義兄(姉の夫の兄弟)で株式会社塩野義商店(現在の塩野義製薬株式会社)の重役であった由よし井い安三郎が、退職後に大阪市東区(現在の中央区)淡路町の船場ビルに設立した宣伝広告印刷会社である(注36)。ここで前田は図案を担当し、同僚に福田勝治(写真担当)や河田榮(文案担当)がいた(注37)。小林葉三や浅野孟府も青雲社に関連があったとの説もある(注38)。青雲社は塩野義商店の広告を主とし、雑誌広告、ポスター、ディスプレーなどを扱い、「メガネ肝油」「ビタオール」「ナショナル電気」の仕事もしたとされる(注39)。青雲社社長の由井は外国語に堪能で『ヴォーグ』『カイエ・ダール』などの洋雑誌や洋書を購入しては、前田や福田ら若い従業員に勉強させていたと言われる(注40)。前田旧蔵書には『Die Reklame』『Gebrauchsgraphik』『The Poster』など1920年代末から30年代に刊行された海外のデザイン専門誌が見られ、青雲社のシールが貼られた冊子もある。青雲社在籍時に得られたであろう書籍として、解剖図を載せた医学書や、医療・飲食店・園芸に関する洋書の商品カタログも旧蔵書にあり、コラージュ素材や参照資料として作品制作に活用されたと思われる(注41)。旧蔵資料には、前田の作と推定される塩野義の広告物やその原画がある〔図6〕〔表1〕。図案制作時に参照したであろう薬の写真も多数残されている〔図7〕。青雲社関係では、前田の図案による「青雲社写真部 福田勝治」の写真袋、印刷工程聯盟(青雲社も加盟)のPRパンフレット『新形態』(注42)、青雲社のロゴの原稿やシールが旧蔵資料にある。また近い時期のものとして、河田が主導し前田が舞台構成を担当した「純粋広告演劇第一回試演・覗く」(昭和7年3月24日)のパンフレットと舞台装― 46 ―― 46 ―
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