映画やスライドのようにスクリーンへの投影によって写真を拡大して見せること、または顕微鏡写真のようにレンズの働きによる対象を拡大して見ることは、まず写真の重要な特徴である。そうした拡大性によって、細部への注意、言い換えるなら部分の尊重ともいえる見方が導かれる、というのが須田の見解である。彼はここで部分をどうみなすか、という点に構図的問題があると考えている。起点になるのは、従来からある「部分を一つの全体としてみなす考え」である。さらにそこから転じて、切りとられた部分以外の他の部分を、暗に予想した構図的統一をもつという見方である。後半の見方がもつ枠組みは、京都帝国大学で活躍した哲学者・西田幾多郎の哲学と通底するものがみられるだろう(注6)。一方、写真がもたらした細部への注意は、こうした全体に対する部分とは、異なる美を強調するものであるとする。ある特定の部分、細部を強調することは、全体との関係の中でこの部分を見るのとは違った、新鮮な印象を見るものに与える。こうした変化を須田は「構図的変遷」かもしれないとみていた。こうした構図法則に変化をもたらすものとしては、他に「急激な角度使用の視野」を展開することを挙げている(注7)。これはカメラのレンズがもたらす歪みや圧縮効果など、レンズ的視覚を指すと思われる。次に天然色映画(カラー映画)について述べた記事Bを見ていく(注8)。須田は本記事で「映画は写真である」とも述べており、映画が有する写真的要素に自覚的だった。記事Aでは語られなかった映画・写真の色彩も話題となり、先の記事を補完する内容ともいえる。本記事ではまず映画における色彩の有無、音声の有無を、その表現における必然性の視点から述べている。無声映画とトーキー(今日一般的な音声のある映画)で求められる演技や表現が異なるように、モノクロ映画と天然色映画で求められる演出や表現は異なる。作品ごと表現に必然性があるか、表現の統一性が図られているか配慮しなければならないと須田は考えていた。色彩に関しては、モノクロ映画ならば、自然の風景と人工物である舞台装置(セット)ができるだけ階調を保つことが重要と考えていた。天然色映画となれば一段とそれが複雑になり、セットの自然への連関が色彩的にも協調しなければならない。さらにモノクロ映画では明暗対比や、一色としての調子から来る衣裳・装置等が1つの構図を生むとしている。こうした発言からは、単色で作られる版画などと同様にモノクロ映画を捉えていることがうかがえる。続けて、「天然色となればそれに加え― 580 ―― 580 ―
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