鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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て一層絵画的要素が要求される」としている。映画には映画の美、構図があり、必ずしも絵画を参考にする必要はないかもしれないと断りつつも、参考にされて悪い事はない、と述べている。天然色映画のテクニカラーについては、色彩の鮮烈さはあるが全体に調子の変化に乏しく階調が浅いとしている。黒についても、藍色を帯びて美しいが、少々単調でモノクロ写真に見るような深い階調がないとし、要するに自然よりもはるかに集中された色調と結論付けている。須田の写真・映画の批評は、ほとんど絵画に対するそれと同一といえよう。色彩や構図への指摘だけでなく、作品内における統一という視点自体、彼が大学の卒業論文以来、保持している考えである。これは当時の指導教官・深田康算からアリストテレスについて学んだことが大きい(注9)。須田の基本的な芸術観、芸術評価軸は、先の西田哲学由来のものと、アリストテレス=深田由来の二軸をもち、それを基本として写真も絵画同様に見られているといってよいだろう。2.写真と絵画の違いについて次に写真と絵画の違いについて、須田の考えをみていく。まず象徴的なエピソードを2つ紹介したい。1つ目は、戦時中、須田のもとに従軍画家として戦争画を書いてほしいという依頼があったが、彼はそれを2回とも断っているという。その理由は、戦争画は前線に趣いて取材して描くわけではなく、主として写真を見て描かねばならないからであり、「自分は写真では絵は描けんのじゃ」と語っていたという(注10)。2つ目は能デッサンについて、ご子息・須田寬氏の証言である。須田は能をデッサンする時には、演能一番でスケッチブック1冊を使い切るペースで描いた。このスケッチを見ていた寬氏は、まるで高速度写真のように見えたため、「16mmで撮ればいいのに」と父に言ったところ、「写真では演者の心は写せない。絵は決して写真ではない」と言われたという(注11)。では決して違うと言った両者に、どのような違いがあると考えていたのだろうか。これについて須田は「能の姿」で述べている(注12)。能舞台を絵で描く場合と、写真で写す場合を比較しながら、絵はどんなに直写しても瞬時を捉えることはできず、描く時間のために遅れてくる。それを記憶で補うが、その記憶の速度と実際の速度に食い違いが起こってくるのであり、写真の瞬間撮影とは違ったものになってく― 581 ―― 581 ―

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