鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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る、と述べる。しかし、描くことの遅れを補う記憶が描写の手段によって補われている点に、芸術家の手腕が表れてくるという。須田は能のことを「外ずす芸術」と表しており、例えば「能の足の運び、拍子をふむことが必ずしも拍子のそれと一致しない」と言い、「能の動きもかくことの為め写真的とは違った足取りや、上体下肢の連絡に若干の食い違いが起こることもあり得る」と述べる。この能がみせる特殊な食い違いも、辻褄を合わせて一つの能の動きとして表せるところに絵画的表現がある、とする。こうすることでかえって能の姿に肉薄する点で、絵画は写真に劣らないだけでなく、画家の見方、すなわち芸術的な表現が無限に湧いてくるのではなかろうか、とまで言っている。ここでは対象を能に限定しているものの、画家の創意によって写真よりも絵画の方が対象の真に迫り、かつ芸術表現の点でも豊かであるという、写真に対する絵画優位の考えが暗に示されている。また、絵画と写真を比較して画家の創意を強調する姿勢は、「ある野獣主義者の出発」という記事にも見出せる(注13)。そこではドランの描いた≪カーニュ風景≫と実景写真を比較しながら論じており、「写真のレンズ」と「ドランのレンズ」の共通点と違いが述べられている。共通点は、自然の前にたったときの態度であり、それは「見えるものがそのままに受け入れられている点」にあるという。一方で両者の違いは「ドランのレンズ」が受け容れた自然の「浄化装置を持つ」ことを挙げている。この点でドランはセザンヌの立場にあり、その表現は、「今日に至つてやつと気づくことの出来た新しい姿でもあつたのである」と結論付けている。ドランをセザンヌと同じ立場と見なす発言と、別の記事で須田が述べたセザンヌ論を踏まえるなら(注14)、彼は画家がもつ「現実の産出」作用(つまり「浄化装置」の働き)、新しい現実を生み出す働きを、写真にはない絵画固有の特徴であると考えていることがうかがえる(注15)。3.写真利用の具体例前述のように絵画と写真の違いを認識しつつも、須田は作画のために写真を「勉強材料」として利用していた(注16)。以下では、写真を作画に用いた作例を2つ取り上げる。まずは彫刻を描いたデッサンである〔図1〕(注17)。描かれているのはバルトロメオ・バンディネッリ《ジョバンニ・デッレ・バンデ・ネーレ記念碑》(フィレンツェ)― 582 ―― 582 ―

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