鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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置の原画〔図8〕が、旧蔵資料に見られる(注43)。青雲社は、社長の由井が昭和5年(1930)に急死したことで解散したとされるが(注44)、前田の図案の仕事はその後も続く。昭和8年(1933)に前田は大阪市東区(現在の中央区)平野町に「喫茶エピナール」を開くが、後に同じ屋号で「えぴなーる工房」を開業し、「商業芸術工作、図案・文案、宣伝計画、商業写真」(注45)を受注した。昭和14年(1939)に前田は「印刷所勤務をやめ、主として塩野義製薬や関係のデザインを企画し制作する図案家として独立するとともに、版画の道を深め」たとされるが(注46)、この年が工房開設の年と思われる。前田は株式会社椿本チエインの広報媒体にも長きにわたり携わった。発端は昭和4年(1929)頃、神戸高商を前田と同年に卒業した同窓生で後に2代目社長となる山中一郎から電話で図案制作の依頼を受けたと、前田は回想する(注47)。以来、カレンダー、商品パンフレット、社内報、新聞広告、周年記念誌など、多種多様な媒体に携わった〔図9〕〔表1〕。文筆に長けた山中は、終戦直後に社内に結成した演劇部「椿座」で台本を執筆し、前田は舞台美術を手掛けた(注48)。その活動の様子は、旧蔵資料からも伺える〔図10〕。前田は戦後に図案の仕事をやめたと記しているが(注49)、戦後もカレンダーや包装紙、新聞挿画や冊子表紙の仕事に多く関わり、晩年には大阪駅コンコースの陶板レリーフ《大阪の四季まつり》(昭和58年完成)の原画を制作する(注50)。付表にまとめたように〔表1、2〕、旧蔵資料には、版画制作と商業美術の狭間で前田が手掛けてきた多種多様な紙媒体が残されている。結び前田藤四郎は昭和期の大阪で、版画家として商業美術に関わり続けた。初期には大正期新興美術運動からの影響も大きく、百貨店の店舗装飾を版画のモチーフとし、商業印刷と版画の混合から独自のコラージュ的イメージを生み出すなど〔図3、4〕、商業美術の要素を版画制作に取り込むことで、版画の可能性を拡げた。一方で戦後のカレンダーや出版物に見られるのは、版画作品として完成されたイメージの、商業美術への応用である。商業美術と版画制作との接点はこのように様々だが、版画家という枠を超えて長きにわたり人々の暮らしを彩ってきた、その功績は大きい。前田の商業美術との関わりについて、本稿は主要な輪郭のみを示したに過ぎない。今後さらなる調査研究によって、実像をより鮮明に示せれば幸いである。― 47 ―― 47 ―

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