鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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ロンバルディアには、教皇令の発布、「聖母の宿り信心会」の存在、シクストゥス4世から授与された贖宥を書き写した文書など、「無原罪の宿り」及びシクストゥス4世との関係を示唆する興味深い事例が確認される。1 ミラノの「聖母の宿り信心会」「無原罪の宿り」の認否をめぐり議論が繰り返される中(注5)、教理の容認に向けたシクストゥス4世の強硬な姿勢は(注6)、「無原罪の宿り」を否定するドメニコ会の姿勢を硬化させた(注7)。この状況に対しシクストゥス4世は、1483年に全説教者に向けて「無原罪の宿り」が異端であると主張する者を排斥する内容の教皇令を発令する。実のところ、これは二度目で、その前年に同じ内容の教皇令がロンバルディアに限定して出されている。この事実は当時のロンバルディアにおける、「無原罪の宿り」への強力な対抗勢力の存在を示している。換言すれば、この状況を背景に、ロンバルディアでは他に先んじて「無原罪の宿り」の視覚化が促された可能性は否定できない。もとより、フランチェスコ会はイメージを用いた布教を推奨していたからである(注8)。シクストゥス4世在位期のミラノでは、ヴィンチェンツォ・バンデッリを中心としたドメニコ会の対立姿勢が顕著であった。一方、フランチェスコ会は1478年にサン・フランチェスコ・グランデ聖堂内に「聖母の宿り信心会」を設立している。この動きに直接シクストゥス4世が関わったか否かにかかわらず、「無原罪の宿り」の公認を強く望む教皇の行動に伴う影響が、少なからず存在したと考えるに疑問の余地はない。1480年には同信心会により、無原罪の聖母に捧げる木製祭壇の建築がジャコモ・デル・マイーノに注文され(注9)、鍍金がデ・プレディスに、祭壇画である《岩窟の聖母》がレオナルド・ダ・ヴィンチに依頼されたのは1483年である(注10)。グランデ聖堂の祭壇は残されていない。しかし、考察の手掛かりとなり得る祭壇が、ヴァルテリーナ地方モルヴェーニョのサントゥアリオ・デッラ・ベアタ・ヴェルジーネ・アッスンタに現存する〔図3〕。祭壇は当時ロンバルディアで流行していた木製祭壇の形式に準ずるものと考えられ、ジャコモ・デル・マイーノの息子が制作に携わったと伝えられる(注11)。祭壇画である《玉座の聖母子》が祭壇の鍍金と共にガウデンツィオ・フェッラーリとフェルモ・ステッラに依頼されるなど、グランデ聖堂と同様の注文方法が採られている。祭壇上部には使徒と天使たちの彫像がめぐり、半円蓋の形式をとる天頂には、胸の前で手を合わせたマリアの立像が置かれている。設置場所から判断して、このマリア像は「聖母被昇天」である。システィーナ礼拝― 589 ―― 589 ―

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