堂旧祭壇画と同様の意図が考えられ、このマリア像が「無原罪の宿り」の含みを持つ可能性は高い。フランチェスコ会では「聖母被昇天」は「無原罪の宿り」の結果と考えられていたからである。マリア像の上に冠が掲げられる構図もシスティーナ礼拝堂旧祭壇画や本作品との類似性が高い。グランデ聖堂祭壇にもマリア像が設置されていたとデ・ヴェッキが指摘しているが(注12)、おそらく、モルヴェーニョのマリア像と同様の形態であったと考える。更に、「聖母の宿り信心会」には1479年に、シクストゥス4世より授与された贖宥内容を記した証書が存在した。表紙にはシクストゥス4世の紋章と共に、「幼子の礼拝」図像が描かれる(注13)。「幼子の礼拝」とは「降誕」を典拠とした、マリアが大地に跪き、地面に横たわる幼子に手を合わせ、礼拝する図像である。マリアが幼子に手を合わせる所作には「受難」が予示されているとの指摘があり(注14)、その意味からシクストゥス4世がこの図像に「無原罪の宿り」の含みを持たせていた可能性は否定できない。「聖母の宿り信心会」がこの図像を旗幟に用いたこともあり、「幼子の礼拝」には「無原罪の宿り」が暗示されていたと考える。2 ガンナのミゼリコルディア「無原罪の宿り」図像のマリア像成立におけるシクストゥス4世の影響を示す作例として、ミラノ郊外ヴァレーゼ地方に残されるフレスコがある〔図4〕。主題である「慈悲の聖母(ミゼリコルディア)」(以下、「ミゼリコルディア」)は、基本的にマリアが堂々と立ち、足元の人々をマントで包み込む姿を表した図像で、13世紀末頃から主にイタリア、フランス、ドイツ、ネーデルランドで普及した(注15)。特に、14世紀後半以降、ペストから人々を守るとされ、旗幟などに繰り返し採り入れられた主題である。ヴァレーゼ北部の小村ガンナのサン・ジェモロ聖堂は、1095年にミラノ司教区に属する三人のベネディクト会士の住居として築かれた。1556年にミラノのオスペダーレ・マッジョーレに運営委譲されるまで様々な保有者により管理されたが、当該フレスコは、15世紀半ばからミラノを支配していたスフォルツァ家の庶子である、レオナルド・スフォルツァ・ヴィスコンティにより注文された(注16)。画面いっぱいに描かれたマリアは目を大きく見開き、しっかりと正面を見据え、両腕を広げて立つ。右手に持った巻紙には「私は棘のない薔薇」、左手には「神は私の命をお造りになり、憩いの場とされた」と、いずれも「無原罪の宿り」祝日の祈りとしてシクストゥス4世が公認したノガロリスの祈りが引用される(注17)。― 590 ―― 590 ―
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