鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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注⑴ M. Davies, ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ (■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■), London, 1961, p. 166; P. Zampetti, ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■4vols, Pesaro, 1988-92, p. 298には、図像的に後のティエポロやムリーリョなどへの橋渡しとして重要な図像であると説明される。クリヴェッリの経歴や業歴については以下、R. Lightbown, ■■■■■■■■■■■■■■, New Haven, 2004; M. Davis, “Carlo Crivelli, ” ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, 4(1972), pp. 3-21; S.J. Campbell, ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, London, 2015; T. Golsenne, ■■■■■■■■■■■■■■-■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, Rennes, 2017; G. Perocco, ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■32, Milano, 1964.⑷ K.E. Butler, “The Immaculate Body in the Sistine Ceiling,” ■■■■■■■■■■■, 32-2 (2009), pp. 250-289, esp., pp. 281-282. バトラーは何に由来するものかを明示していない。一方で、公会議以降は「黙示録」の女に画一化されたとされる。B.J. Blackburn, “The Virgin in the Sun: Music and Image for a Prayer Attributed to Sixtus IV,” ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, 124-2 ⑵ 「無原罪の宿り」とは、マリアが原罪の穢れを一度も被らなかったというカトリックに限定し⑶ R. Lightbown, ■■■■■■■.; A. Marchi, “Lʼimmacolata concezione di Carlo Crivelli per i francescani di pergola,” ■■■■■■■■■■■■■■■■■ a cura di Marisa Baldelli, ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, Pergola, 2004; E.S. Varanelli, ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, Roma, 2008.かもしれない(注36)。それらの図像のどの部分に「無原罪の宿り」を読むのか。マリアの処女性─フランチェスコ会では「無原罪の宿り」─はマリアと共に描かれる神と天使の存在であるという指摘がある(注37)。筆者も同意するものであるが、敢えて補足するならば、神の姿とその下に浮遊する、一対の天使である。神の姿と一対の天使はモルヴェーニョやシスティーナ礼拝堂旧祭壇画には認められないが、本作品含め「無原罪の宿り」図像には明らかである。ガンナのフレスコについて言えば、そもそもフランチェスコ会はマリアの栄光と「ミゼリコルディア」を関連づけてはいなかったのであり、フレスコ自体は上部アーチに描かれた、神を囲む一対の天使と共に読むことで、「無原罪の宿り」の意味が成立する。これに関しては、稿を改めることとして(注38)、おそらく、「無原罪の宿り」図像は、神と一対の天使が手を合わせ祈る立像のマリアと共に描かれるのは必然であった。見る者はその関係の中に、「神の母となることを創造の初めから計画されていたマリア」、受難を通して「神の恩寵により原罪の穢れを一度も被らなかった」と読み取る。結論として、「無原罪の宿り」図像のマリア像は「黙示録」に由来するものではない。た教理であり、処女のまま身ごもったとする「処女懐胎」とは異なる。― 594 ―― 594 ―

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