⑺ ドメニコ会の意見については拙稿「Thomas Aquinasのマリア論─マリアの「無原罪の宿り」⑽ アンナ・マリア・ブリツィオ 「画家」『知られざるレオナルド』、佐々木英也訳、岩波書店、(1999), pp. 157-195, exp., p. 185.を中心に議論が続けられた。1854年に教皇ピウス9世により正式に教義宣言された。についての考察とその基本原則 」『哲学世界別冊』 3 (2011)、119-129頁。1975年、26頁。しているのか否かをめぐって」『イタリア学会誌』 45 (1995)、25-52頁。れた。■■■■., pp. 246-253.■■■■., p. 254. 1472年にシクストゥス4世が作成した「贖罪」の祈りの一部である。■■■■., p.260. 同じ構図を持つ図像がミラノのサンタンブロージョ大聖堂のミサ典礼書の挿絵にあり、レオナルドが参考にした可能性がある。典礼書は初代ミラノ公が献じたもので、マリアのマントの内側に公爵と妻カテリーナが描かれた。⑸ アウグスティヌスの原罪論を発端に、教理を擁護するフランチェスコ会と反対するドメニコ会⑹ シクストゥス4世は1477年に12月8日の「無原罪の宿り」の祝日とノガロリスのミサを承認、この日に礼拝した者に対し贖宥を与え、「無原罪の宿り」の可能性を論じたスコトゥスの意見に自由に従うことを許可した。1480年にはブスティによる特別な聖務日課を定め、「無原罪の宿り」の教えを述べるものを異端として破門とすることを禁じた。⑻ A. Dallaj, “Orazione e pittura tra《propaganda》e devozione al tempo di Sisto IV: Il caso della madonna della Misericordia,” ■■■■■■■■■■■■■■, 8 (1997), pp. 237-262, esp., p. 256.⑼ 齋藤泰弘「無原罪の聖母の祭壇画になぜ洗礼者ヨハネが登場するのか?ベルナルディーノ・デ・ブスティの『マリアーレ』とレオナルドの「岩窟の聖母」の関係について」『京都大學文學部研究紀要』 49 (2010)、101-185頁。特に、104頁。⑾ http://www.parrocchiadimorbegno.com/(20231108最終閲覧)⑿ M.L. DʼAncona, ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, NewYork, 1957, p. 75. セラフィムとケルビムを従える父なる神の姿と共に置かれていた。⒀ 齋藤泰弘「「岩窟の聖母」の図像の神学的解説序説─ロンドンの聖母は無原罪の宿りを表現⒁ 塚本博「キリスト降誕図からマードレ・ピアへ─礼拝する聖母マリア図の形成と展開」『美学』、50 (1999)、56頁。この指摘は注目に値する。受難は「無原罪の宿り」の解釈に重要である。「無原罪の宿り」はキリストの贖いを通して可能とされたと論じたのがスコトゥスである。スコトゥスの意見については、拙稿「スコトゥスのマリア論─至福なる処女は原罪のうちに懐胎したのか」『哲学世界別冊』、4 (2012)、33-46頁及び、「無原罪の宿りの神学的解釈序説─ドゥンス・スコトゥスの立論について」『WASEDA RILAS JOURNAL』、2 (2014)、119-125頁を参照。⒂ 河田淳「ペスト流行期の慈悲─《慈悲の聖母》のイコノロジー」『人間・環境学』、20 (2011)、27-37頁; C. Belting- Ihm,■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, Heidelberg, 1976.⒃ Dallaj, ■■■■■■■., pp. 259-260. 1469年、ミラノ城入口に「ミゼリコルディア」のフレスコが描か⒄ ⒅ ⒆ ⒇ 拙稿「「太陽の聖母」をめぐって─マリア図像の変容とその意味」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』、63 (2018), 481-495頁。贖宥の期間については11,000年と12,000年が混在している。― 595 ―― 595 ―
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