鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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戸城内では弘化2年(1845)度再建本丸御殿と天保10年(1839)度再建西の丸御殿の中奥(奥)休息の間上段床に富士山が描かれた。障壁画制作にあたっては、文政8年(1825)の障壁画張替えの際に狩野伊川院栄信・晴川院養信父子が描いた図様がそのまま採用された(注4)。本丸御殿中奥は将軍の日常生活の場である。うち休息の間は将軍が多くの時間を費やす部屋で、上段の間は将軍の起居、下段の間は通常の政務を執り行う部屋であった。上段の間では、西に面する床に駿河湾に臨む富士山が描かれ、左右には清見寺や三保松原も配される。西面床の構図は、伝雪舟筆「富士三保清見寺図」(永青文庫蔵)やそれを規範とした「富士山図」(静岡県立美術館蔵)など狩野探幽が編み出した定型を踏襲したものだが、よりパノラミックな俯瞰構図が企図される。それは透視遠近法と空気遠近法を巧みに融合し江戸湾越しに遠望する富士山を俯瞰する「花見遊楽図屛風」(京都国立博物館蔵)のような、自身の新機軸とも通う。一方、小下絵に施された賦彩や注記から休息の間では、鮮やかな賦彩や細緻な描写といった江戸後期狩野派の新様式が採用されていることがわかる。狩野晴川院養信筆「大和名所図屛風」(静岡県富士山世界遺産センター蔵)は、古絵巻中にみられるようなすやり霞を棚引かせるなか、富士山や住吉、松島、厳島、天橋立、近江名所など各地の名所を並列した復古調の作品であるが、金銀泥を多用しつつ濃彩により精緻にモティーフを描写する同作の様式は、失われた休息の間障壁画を想像させる。隣接する違棚には、歌枕の小夜中山が描かれ、地理的な連続性が保たれる。南側に続く腰障子や長押上の壁に描写されるのは、八橋や蔦の細道、宇津の山など『伊勢物語』第九段ゆかりの名所である。将軍の背後に広がる富士山のパノラマは、『伊勢物語』東下りというフィクションのなかに融解していくのである。下段の間との間仕切りとなる東面の襖と長押上壁には、金沢八景と江ノ島、稲村ヶ崎からなる雄大な海の景が繰り広げられる。江戸時代後期には、司馬江漢による一連の「七里ヶ浜図」をはじめ江ノ島越しに富士山を望む構図が定型化していくが、休息の間上段では富士山が配された西面の向かいとなる東面に湘南の風景が展開し、同構図の地理的関係が立体に示される。続く北面には、長押上の小壁に鶴岡八幡の社殿群や由比ヶ浜が描かれ、東面との連続性がはかられる。その下の襖には、調布玉川と芒すすきに覆われた武蔵野の景が広がる。芒野と富士山の組合せも古歌にもとづく「武蔵野図」として定型化されるが、休息の間上段においても北面西端に描かれた武蔵野と西面の富士山は連続する。北面には源頼朝と武蔵野─徳川将軍とその都江戸にとっての古層が描写され、生身の将軍の座す― 612 ―― 612 ―

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