鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
628/712

西面へとつながっていく。下段の間では、上段の間との間仕切りとなる西面の襖と長押上の壁に龍田川と三輪山が描かれるほか、春日野や春日社、東大寺、猿沢池、さらに吉野山や井手玉川などの名所が配される。国家的寺院である東大寺や藤原氏の氏神春日社をはじめ南都の景観を中心に、吉野や龍田、井手玉川など伝統的な畿内の名所が配される。休息の間では、両室の外側に当たり廊下に面する入側にも障壁画が設けられ、明石浦や淡路島、住吉社、交野、布引滝、さらに勿来関、名取川、塩竈社、松島など諸国の名所が描かれる。東西の名所を網羅した休息の間は、日本を統べる“王”にふさわしい空間であり、畿内の名所に富士山はじめ東西の辺境も含めることで自らの政権構想を象徴させた後鳥羽院の最勝四天王院障子絵の系譜上にたつものであった(注5)。もっとも最勝四天王院の富士山があくまでも都からの“東下り”のまなざしでみられる存在だったの対し、江戸城の富士山は将軍の身体と一体化する権力装置としての役割をになう。休息の間では、上段の間に海景を主とした東国の名所、下段の間に山景を主とした畿内の名所が描かれ、上下二室で対照的な景観が展開される。吉野や龍田など王朝世界の歌枕と徳川将軍のための新しいランドマークとしての富士山、藤原氏の氏神春日社と源氏ゆかりの鶴岡八幡とが主客逆転しているのである。休息の間に広がるのは、江戸を都とする“王”のため新しく再編された名所であり、名所の主として中心に君臨するのが富士山であった。明治天皇の“富士山”とそれからの狩野派安政7年(1860)3月3日、大老の井伊直弼が、江戸城桜田門外で旧水戸藩士らの刃に斃れる。その後年号は万延と改められ、開国と攘夷をめぐり国論は二分、時代は大きく動いていく。吹き荒れる攘夷の嵐のなか、将軍サイドでは公武合体が模索され、文久3年(1863)には徳川家茂が将軍として229年ぶりの上洛を果たす。家茂は文久4年に続き、慶応元年(1865)にも第二次長州征討のため3度目の上洛を行う。家茂の上洛と西上については『御上洛東海道』や『末広五十三次』のような歌川派浮世絵師の寄合書による大規模な揃物錦絵が出板されるとともに、三枚続の錦絵も少なからず刊行された。一連の家茂上洛関係錦絵では、覆い隠すべき神聖な存在であった将軍の姿がはっきりと描かれていることが特筆されるが(注6)、ここでは将軍の身体と一体化するように江戸城と富士山、将軍家の祖神家康─東照大権現を象徴する霊鳥鶴がしばしば合わせ描かれ、将軍の御威光が表象される。― 613 ―― 613 ―

元のページ  ../index.html#628

このブックを見る