第二次長州征討に赴いた将軍家茂は、慶応2年(1866)7月20日滞在先の大坂城において病歿する。その後15代将軍を継承した徳川慶喜は、慶応3年(1867)10月14日大政を奉還し、12月9日にはいわゆる「王政復古の大号令」が発せられ、約260年続いた“徳パクス・トクガワーナ川の平和”は幕を閉じる。こうしたなか改元から間もない明治元年(1868)9月20日、前年に践祚した睦仁、すなわち明治天皇は江戸から名称を改めたばかりの東京へと旅立つ。関東の地に天皇が御幸するのは例のないことであった。京都の宮中奥深くにあった明治天皇は、内裏清涼殿や小御所に描かれた富士山よりほか知らなかったが、東海道を下り、はじめて現実の霊峰を目の当たりにすることができた。『明治天皇紀』明治元年十月七日条は伝える(注7)。「卯の半刻吉原行在所を発し、柏原を経、原駅に小憩あらせられ、復富士山の勝景を望みたまふ、富士の天覧に入る、蓋し古来未曾有の事に属す、乃ち供奉臣僚に命じ、東京御著輦までに各々望嶽の詩歌を随意詠進せしめたまふ…」明治天皇による富士見は、寛永11年(1634)上洛途上の徳川家光が駿府城で行った例(注8)、さらに源頼朝の富士巻狩りや足利義満・義教の富士遊覧などの先例と同様、自身の身体と富士山を一体化させる政治的な行為だっただろう。また同記事は近代天皇と富士山の文化史的な連繋を示す嚆矢でもあった。日露戦争が熾烈をきわめた明治38年新年の歌会始めでは、天皇の強い意志により御題が新年山に定められている。この折の御製は「ふじのねににほふ朝日もかすむまて 年たつ空ののとかなる哉」であるが、ナショナリズムが昂まったこの時期、天皇自身によりのちに〈国体〉を暗喩する常套的なイメージとして可視化されていく富士と旭日の組合せが詠み込まれていることは興味深い。一方、徳川幕府崩壊により家録を失った狩野各家は、新しい時代への対応に迫られることになる。狩野永悳立信の養子となり狩野宗家を継承した狩野祐正忠信(1864~?)が帝国美術院長正木直彦(1862~1940)のもとめに応じて編述した『明治維新以来狩野派沿革』(注9・以下『沿革』)は、明治以降の狩野派の動静を伝える重要資料として諸先行研究が引用するが、同文献の冒頭には維新後の各家各人の履歴が列記される。『沿革』の記述は忠信も属した宗家中橋狩野家の記述からはじまり、狩野永悳立信の明治維新後の経歴を記述する。それによれば立信は、慶応4年(明治元年・1868)、江戸城の明け渡し(4月11日)、東征大総督熾仁親王の江戸城入城(4月21日)、上野戦争と彰義隊の敗北(5月15― 614 ―― 614 ―
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