日)、徳川宗家の駿府移封(5月24日)を経た8月、新政府の行政機関鎮将府から召し出され、その支配下に入っている。翌月の9月8日には明治への改元が行われ、9月20日には明治天皇が東幸の途につき、10月13日には東京城に入城する。なお奥絵師のうち狩野探幽の後裔である鍛冶橋狩野家当主探美守貴(1840~1893)や表絵師の猿屋町代地狩野家当主素川寿信(1820~1900)は、駿府(静岡)へ移封された徳川宗家にしたがっている。もっとも探美守貴はもともと永悳立信の養子として狩野宗家を継承する予定であったが、兄の探原守経(1829~1866)の急逝にともない、大政奉還がなされたばかりの慶応3年(1867)12月鍛冶橋狩野家を相続し、慶応4年閏4月19日には立信より跡目願が提出されている。こののちも探美守貴は永悳立信と密接に歩調を合わせている。時代の変化をたくみにとらえ時々の政権に近侍してきた狩野派だったが、武家の時代の終焉という未曾有のレジームチェンジには、必ずしも順応することができなかった。『沿革』によれば、明治2年(1869)中橋狩野家の家屋敷は、一部をそのまま「拝借」することが認められたうえ新政府から接収(上地)されている。家祖正信・元信以来、京都に伝えられた地所についても維新期の混乱のなかで失われたようである。浦木賢治氏は「太政類典」や「明治二年 朝臣姓名」、「明治三庚午年 府限願伺留」など当時の公文書をもとに、狩野勝川院雅信、狩野永悳立信、狩野董川中信が明治はじめに朝臣化し、石高の加増を受けたことを検証する(注10)。朝臣となった3人は、さっそく新政府の洋風迎賓施設に改装された延遼館に彩管を揮う機会を得るものの、東京の市中警備など慣れない仕事も任されている(注11)。佐藤道信氏は上記『沿革』や第2回内国絵画共進会に際する『出品人略譜』を手掛かりに明治維新後の狩野派画家の動静をまとめ、旧奥絵師や表絵師の狩野家御絵師が少なからず明治新政府の関係機関・施設に出仕していることを明らかにするとともに、それらがまず富国強兵や殖産興業、時期が降り美術教育や古美術保護に関連する部署であったこと、明治期における美術行政の推移ともリンクしていたことを指摘する(注12)。佐藤道信氏はさらに、狩野派に出自をもつ明治期の画家たちが、「前近代的形態」としての流派解体ののち「新たな画壇の構成因子」となった美術団体に活動の場をシフトさせたとし、アーネスト・フェノロサ(1853~1908)が主導する鑑画会に関係した画家たち、佐野常民(1822~1902)を中心とする日本美術協会に関係した画家たちを列挙している(注13)。現在“新派”に分類される前者には、狩野勝川院雅信門の狩野芳崖(1828~1888)、橋本雅邦(1835~1908)、木村立嶽(1827~1890)、狩野勝― 615 ―― 615 ―
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