鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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玉昭信(1840~1891)、狩野春川友信(1843~1912)、狩野永悳立信門で養子の狩野忠信ほかの画家たち、“旧派”のレッテルを貼られる後者には、狩野永悳立信や狩野探美守貴などが所属していたが、両者はそれぞれ異なる政治的背景をもつ団体であり、双方を横断的に活躍する画家もみられた(注14)。永悳立信ははじめフェノロサとも協力関係にあり、狩野家の鑑定法を教授したうえ狩野姓を許すとともに「永探理信」の画号と画名を与えている。もっとも立信はフェノロサが進める改革主義には懐疑的で、フェノロサが立信のもとから嗣子忠信を引き取り創作のために部屋を供与しようとするのに際しては、「芳崖流ニ堕セザル様」、狩野探美を通して説諭したという(注15)。フェノロサに協力した狩野家の画家としては、遣米・遣欧使節持参の掛幅画制作でも活躍した狩野董川中信の嫡男春川友信がまずあげられる。友信は明治13年フェノロサの関西古社寺調査に同行して東福寺や大徳寺などが所蔵する古画を模写したり、狩野永悳立信や狩野芳崖を紹介している(注16)。友信はフェノロサによる明治17年の鑑画会の設立にも携わり、永悳立信らとともに鑑定委員をつとめている。明治19年には文部省図画取調掛となり東京美術学校設立に関与、明治22年に開校すると雇として教員となり、同24年には助教授となっている。一方、佐野常民が主導する日本美術協会(前身は龍地会)は、総裁に有栖川熾仁親王を迎えるなど皇室との結びつきを強め、明治23年に発足する帝室技藝員制度に関与していく(注17)。明治17年から着工され明治21年に竣工をみる明治宮殿の内部装飾に関与したのも、多くが日本美術協会系の“旧派”画家であった。明治宮殿造営に参加した画家延べ44名のうち狩野家(旧御絵師)は、奥絵師中橋家の狩野永悳立信、同鍛冶橋家の狩野探美守貴、表絵師根岸御行松家の狩野妟川貴信、同深川水場家の勝玉昭信、同猿屋町代地家の狩野素川寿信、築地小田原町家の狩野溪雪久信(1839~1907)の6名である。もっとも和洋折衷の明治宮殿は、狩野派が本領を発揮した襖絵群により囲繞される空間ではなく、内部装飾としての絵画も花鳥画や文様的な図柄が中心であった。和漢の諸画題が集成され、ときに視覚的に共鳴しつつ象徴的なイデオロギー空間を湧現させる江戸城とは、もはや文脈を異にしているのである。これまで武家政権と密接な関係を構築してきた狩野派は、各政権の意図をたくみに汲み取り、それを視覚的イメージとして置換することを自らの責務としてきた。しかしながら〈国民国家〉としての途を歩みはじめた明治政府は、もはや閉じられたイデオロギー装置としての狩野派絵画を必要とはしなかった。イデオロギーの視覚化とそ― 616 ―― 616 ―

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