のための集団制作を本領とする流派としての狩野派は、〈美術〉が制度化されていく新しい時代に自らの活躍の場を得られなかったのである。佐藤道信氏は権益のほとんどを徳川将軍とその政治体制に負っていたことを狩野派が瓦解した最大の要因と位置づけ、流派解体後の個人が新政府に吸収されたことにより、流派としての社会的存続の可能性が断たれたと指摘する(注18)。もっとも狩野派が解体していくにあたって政治体制の崩壊による影響は、経済的側面だけでなく、上に述べたような作画の根本をなす自派のアイデンティティに関わる部分にも見出せるのではないだろうか。一方、本来的には〈漢〉の文化領域に依拠する狩野派は、室町時代の狩野元信(1476~1559)の頃より和漢を兼帯してきたが、明治に入り和漢を基盤とした文化構造が和洋へと急速に変質したことも、狩野派が社会的役割を終える要因のひとつにあげられよう。明治宮殿に揮毫した狩野家の画家のなかでは、奥宮殿の天皇常御殿に「菅原文時作席於冷泉院図」の袋戸小襖絵、皇后宮常御殿に「千鳥」「緑竹」「紅白梅花」「四季花籠」の杉戸絵を描いた狩野永悳立信が、明治23年10月2日に最初の帝室技藝員に任命されている。その永悳立信は、同じく明治宮殿に筆を揮い明治26年には帝室技藝員を被名する滝和亭(1830~1901)や野口幽谷(1825~1898)とともに「住吉富士吉野図」(国〈皇居三の丸尚蔵館収蔵〉)を制作している。嘉仁親王(のちの大正天皇)の立太子を奉祝し、明治22年宮内省内廷の侍医と武官から献上された三幅対である。同作は住吉の海景と日輪を向かって右幅、吉野の山景と月輪を左幅、幾重にも連なる雲の彼方に頂を顕わす富士山を中幅に配し、再定義された帝国の領土に君臨する、時空を超越した絶対的存在としての霊峰を近代天皇の皇統に重ね合わせる。同作は狩野派絵師と南画家の共作ながら互いに画風を通わせるが、金泥を多用した極彩色によるその様式は、基本的には前述した狩野董川中信筆「富士飛鶴図」(静岡県富士山世界遺産センター蔵)以下の遣米・遣欧使節が持参したディプロマティック・ギフツとしての掛幅画群の延長線上にある。以後、「住吉富士吉野図」に示された無謬性と不可侵性を纏った富士山の姿、すなわち右左幅の日月そして鮮やかな笠松によりモティーフの聖性が強調されるなか、幾重にも重ねられた雲海から浮かび上がる富士山を環境描写を排して描く構図は、「神聖ニシテ侵スヘカラ」(大日本帝国憲法第3条)ざる近代天皇と彼の統治する帝国の身体─国体を象徴するイメージとして読み替えられ、“紀元二千六百年”(昭和15年― 617 ―― 617 ―
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