鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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ンが宴会を開いている場面には、制作地の判別は困難であるものの、青と白を基調とする焼き物が描かれている(大英図書館所蔵、inv. no. Add. MS. 18113、第40葉裏面)〔図2〕。さらに、1402年にティムール(1405年没)によって攻略されたハマー(シリア西部)からは、現地製とみられる、元末染付を模した青花陶皿が出土している〔図3〕(注8)。さらに、フスタート(エジプト北部)や、紅海で発見されたとされる沈没船から、14世紀(元末明初)に比定される青花の破片の採取が報告されていることも、見逃してはならない(注9)。また、イスタンブル(トルコ北西部)のトプカプ宮殿とアルダビール(イラン北西部)のシャイフ・サフィー・アッ=ディーン・イスハーク廟(以下、シャイフ・サフィー廟)に、14世紀に比定される青花が収蔵されていることも、注目に値する(注10)。ただし、これら14世紀に比定される青花については、実際に西アジア各地にもたらされた時期の特定は困難であることに留意する必要がある。西アジアへの中国製の青花の流入は、この種の磁器への需要拡大につながり、やがて、各地における模倣品制作の契機となった。昨年度の報告書においては、このような西アジアにおける模倣品のうち、イラン製の年代入りの作例2点(それぞれ1677-78年製、1864-65年製)を紹介し、従来のイスラーム陶史研究においては看過されてきた、陶工の語彙・韻文リテラシーや、陶器の注文主の社会的地位といった問題について論じた。では、このような模倣品の着想源となったはずの中国製の青花は、イランにおいて、どのような社会階層に属する人々の蔵品となり、どのような施設に寄進され、その後寄進先でどのように管理されたのだろうか。本稿では、1611年に、サファヴィー朝(1501-1736年)第5代君主であるシャー・アッバース1世(在位1588-1629年)によって、自身の祖先であり、サファヴィー朝の母体となった神秘主義教団の名祖でもある、シャイフ・サフィー(1334年没)の霊廟(於アルダビール)に寄進された中国製の青花が、その後、廟内でどのように管理されたのか、という問題について、現時点での筆者の見解を示す。具体的手法としては、⑴ペルシア語史書、⑵ペルシア語財産目録、⑶寄進された青花の裏側に記入された書き込みの有する情報を分析する。⑴に関しては、先行研究においてしばしば言及されてきたものの(注11)、それらを⑵、⑶といった記録と組み合わせ、イランにおける中国製青花の受容について包括的に検討した研究はこれまでになされてこなかった。本稿では特に、これまで全く検討されることのなかった⑶について、陶以外の素材に記入された同時代・同地域のインスペ― 620 ―― 620 ―

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