富な実例を挙げながら論証された。なお本講演は、日仏美術学会会員を対象に、動画を公開することを検討中である(期間限定)。まず、西洋美術史研究では大芸術(絵画・彫刻・建築)と装飾芸術の研究は別個に行われてきたが、その一因は、フランスにおいては制作当時のまま全体が保存されている室内装飾がほとんどないという状況にあること、しかし、この15年間に諸研究者によって見直しが行われていることが明示された。ラ・フォン・ド・サンティエンヌ『フランスの絵画の現状の諸原因に関する考察』(1747年)やルソー『学問芸術論』(1750年)を例に、室内装飾に携わることが芸術の堕落を招いているという認識があったことも確認された。その上で、画家・彫刻家は大いに室内装飾に貢献していたこと、彼らの作品が装飾芸術の原型となっていたことが論じられた。クロード・オードランⅢ世と共同制作したヴァトー、ランクレ、デポルト、ウードリは装飾に原画を提供した。ルイ14世の没後、絵画や彫刻の注文機会が激減するに伴い、若い画家たちは挿絵制作や装飾に従事した。ペランク・ド・モラス館(現ロダン美術館)ではルモワーヌ、ブーシェ、ナトワールらが、そしてヴェルサイユ宮殿の王太子の図書室ではヴェルネが、戸口上部装飾を担った。後者の作品については、ディドロが1763年のサロンでその嵐の描写を激賞しているが、本来の設置場所で見たとすれば、この八角形の変形画面をアルベルティ的な「窓」としてとらえることができたとは考えられない。展示されるタブローと装飾の一部とでは、見方が異なることに注意しなければならない。装飾が設置された当時の状況がある程度残っている事例がスービーズ館(現国立古文書館)である。ここではブーシェ、トレモリエール、ナトワールが制作を行った。設置場所や特殊な枠組みに合わせなければならない彼らの苦心は作品からも読み取れるが、特にナトワールは手紙の中でも不平を漏らしている。彼の手紙からは、装飾の注文者たちが、何よりも心地よさを求めていたことが読み取れる。しかし、サロンの展示を見て批評する人々は別の評価を下した。フランス国立図書館の「ルイ15世の間」のために描かれたブーシェ作品《エラート》《ウラニア》は1746年のサロンに展示され、ラ・フォン・ド・サンティエンヌの批判の対象となった。室内装飾の構成要素であったものがタブロー画に変容させられると、鑑賞の方法が変わってしまう。具体例として、現ロダン美術館の戸口上部装飾画、ウードリがワトレのために暖炉前衝立として描いたのちに切断されてタブローにされた作品、そして、東京の国立西洋美術館所蔵のランクレ作品が挙げられる。東京のランクレは、ブーローニュ館の装飾を成していた楕円形絵画だが、ウィルデンシュタインが購入して、― 634 ―― 634 ―
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