額縁をつけることで方形としたものである。そもそも、18世紀を通じて、常にフランスは他国に優越する手段として良き趣味を具現化した製品を生み出すことを標榜してきた。ゆえに、アカデミーの重要な芸術家たちには、タピスリーや陶磁器生産に関わることが要請された。タピスリーに関しては、小林亜起子氏の研究に譲り、今回はセーヴルで製造された磁器の例を考えたい。ファルコネが1757年のサロンで展示した大理石の《威嚇するアモル》にもとづく小型の磁器像が人気を博した結果、対作品《プシュケ》が依頼された。ただし、ファルコネは後者の大理石像は作っていないようだ。《ピュグマリオンとガラテア》の場合は、磁器のモデルとしての構想が先行し、その後大理石像を制作して1763年のサロンに出したのではないかと考えたい。この作品は大変な商業的成功を博した。展覧会での成功は、装飾としての需要にはつながらない。ダンジヴィレ侯爵が注文した「フランスの偉人」彫刻シリーズは、サロンで好評を博した。しかし、小型化されてセーヴルで磁器が製造されたものはまったく売れなかった。これと同じ状況はタピスリーにも見られ、新約聖書の真面目な主題よりもブーシェ原画の方がはるかに頻繁に織られた。当時の装飾が心地よさを求めていたからである。さらに、アカデミーの芸術家たちによる作品が版画化されることによって、間接的に広く伝播するという経路もあった。ジャック・ド・ラジューがピキニ公のために1736年頃制作した戸口上部装飾画はその一例である。これはコシャンによって版画化され、その後、ブリュラール・ド・ジャンリス館やボーマルシェの机の木目装飾デザインに再利用された。また、ブーシェの版画は、長らく磁器人形のモデルとして機能しつづけた。以上のような豊富な実例が挙げられた上で、講演は締めくくりを迎えた。18世紀芸術を装飾との関連のみで語り尽くすことはできず、心地よさや感覚的な快さに当てはまらない作品も多数指摘することができる。サロンの批評家たちが評価したような教訓を含むナラティヴな絵画が複製版画やミニアチュールで成功を収めたことも確かである。これに対して、注文制作された装飾のための作品は、展示の場では概して批判された。おそらく、この対立構造の中で、装飾芸術と大芸術の分離が始まったのではないかと思われるが、18世紀フランス絵画を考察するにあたっては、本来それらが置かれた場所を考慮に入れねばならないだろう、とのことであった。二度の講演ともに、講演会後の交流時間ならびに懇親会は、日本の美術史研究者との和やかな意見交換の時間となった。ヨーロッパの学界に広い人脈を持つミシェル氏― 635 ―― 635 ―
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