鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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ラフィティは入口付近の聖人像パネル(バルバラ、クリストフォロス等)に集中している。19世紀前半のものは入口に対面するナルテクス北壁の大規模な大天使ミカエル像に刻まれている。19世紀中葉に書かれたグラフィティが最も多く、これは南北のアプシス付近に集中して見られる。後二者は逆三角形や四角形と十字架を組み合わせた軍旗状の枠組みを伴うものが多く、とりわけ1840年代~1860年代の落書は同一人物によると思われるほど書体が似通っているものも多い〔図3〕。これらの年代を近代史と照合すると、1821~29年までのギリシア独立戦争、以後の大ギリシア主義(メガリ・イデア)と関連する可能性も浮上してくる。天軍の将たる大天使ミカエルは中世より軍人兵卒の守護聖者であった。また死者の魂の介添え役(プシコポンポス)でもある。さらに軍旗状の枠組みで囲まれたグラフィティが多く見られるアプシスの図像は南が「主の荘厳」、北が「デイシス」を採り、再臨(最後の審判)と密接に関わっている。さらにジェルファニオンは1912年にアルハンゲル・ミハイル聖堂を訪れた際、同聖堂はまだ教会として機能していたと報告している。こうした条件を勘案すると、「ギリシア独立運動(あるいは戦闘)に身を投じる兵士が死後の魂の安寧を大天使ミカエルに託してグラフィティを残した」という可能性もありえるだろう。先述したように筆跡が同じグラフィティが見られるというのは、兵士たちに代わってその祈りを「代筆」した修道士(司祭?)がいたことも示唆しているように思われる。これらは未だ想像の域を出ず、歴史的な裏付けが必要であるのは言うまでもないが、同聖堂が近代になってもギリシア人コミュニティーの精神的支柱と見なされていた可能性があるということは大変興味深い。以上のように、この度の派遣では美術を介して国際的な交流が図れただけでなく、報告者自身の研究にも進展もあり、有意義なものとなった。― 640 ―― 640 ―

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