ており、そこで展示即売も行っていたので、シャーがそこで何点かを入手した可能性はありうる。しかし、もっとも可能性の高いのは1880年の使節団で、日本製品の試貿易を目的に正副団長として吉田正春(外務省理事官)、古川宣誉(陸軍大尉)を筆頭に、大倉組副社長の横山孫三郎が差配し大量の文物をテヘランに運んでいる。その量は110箱に及び、港湾たるブシュフールからテヘランまで驢馬、駱駝数十頭を連ねてのキャラバンであった。そのうち陶磁器については日本橋区蠣売町の後藤猪太郎が担当している。蠣売町は現在に至るまで陶磁器の町として知られる。この商品は使節団の宿舎となったバーグ・イルハーニにて展示即売会が開かれ、一部の寄贈を別としてすべてを売り切ることになる。商品点数については現時点で不明であるが、ミニ万博として陶磁器から七宝、絹織物、和紙など日本の特産品を持ち込んでおり、現地での関心を呼んだようだ。イラン人以上に在外公館の外国人にも評判で、むしろそちらの方が多く売れたと報告書には記されている。1878年万国博の日本の出展物は報告書たる『巴里府万国博覧会写真帖』に一覧が写真で掲載されているが、香蘭社のように販売用に大量に製品を持ち込んだ例もあり、そのどれがゴレスタン宮殿の展示物に対応しているかは判定が難しい。むしろ古川や吉田の報告書から伺えるように試貿易の使節団が持ち込んだものがその大半を占めると考えて構わないだろう。横山孫三郎の報告には中国製の磁器も販売の対象との記述があり、コレクションに混じる中国製の製品も後藤猪太郎を通して持ち込まれた可能性が大である。4-2. 「バーゲカー子」と日本使節団―ガジャール朝時代のテヘラン都市計画の一断面今回の調査に際し、もうひとつの目的はテヘランというガジャール朝首都の形成において日本使節団の役割を特定する点にある。陸軍工兵大尉でありフランス工兵の基本を学んできた古川宣誉の分析は吉田正春の情緒的な文章に比べて正確であり、当時のテヘランの都市計画の一端を伺い知ることができる。使節団の宿泊先は古川により「バーゲカー子」と記されているが、これはペルシャ語で「バーグ・イルハーニ」(=イルハーンの庭園)と特定される。王族のアラー・ホリ・カーン・イルハーニ(イルハーニ・カーン 1820-1892)の宮殿+庭園として造営された。今日のフェルドゥーシ街に位置し、現在はイラン国立銀行に置き換わったことで、昔の面影はない。当時から外交官地区で、古川の報告にあるように各国の外交官たちがこぞってこの屋敷を訪れて日本製品を買いあさったというのも、立地的にうなずける。― 645 ―― 645 ―
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