4-3.ガジャール朝時代におけるゾロアスター教とその日本への伝搬についてテヘランの中心は伝統的にバザールにあり、その北側のゴレスタン宮殿は市壁に接続した比較的小振りの宮殿であった。ナセロッディン・シャーの時代に市域の拡大が図られ、フランス陸軍からビュルレール工兵少将(François-Alexandre Burler)が派遣され、テヘランの都市計画、防衛を担当することになる。古川は3カ月半にわたるテヘラン滞在期間中に拡張されたテヘランの市壁の実測を行い、その責任者であるビュルレールと意見交換を行い、またペルシャ陸軍の騎兵顧問のロシア騎兵ドマントヴィッチ(Alexey Ivanovich Domantovich)と親交を結んでいる。コサック騎兵と並ぶ乗馬姿の古川の写真がゴレスタン博物館のアーカイブから発見されたのも今回の調査の産物である。当時のテヘランの都市計画はビュルレール少将が中心となり、パリの市壁(チエールの市壁)をそのまま半分のスケールにダウンサイズして市域の拡張を行い、その結果として中心部もゴレスタン宮殿の再整備が行われる。当時としてはテヘラン最高の建物となるシャムス・オル・エマレー(太陽の塔)が建設され、ランドマークとなる。この宮殿を核に歩兵営、砲兵営、騎兵営、演習場を配し、軍備の拡充も進められた。日本の使節団にとっては江戸=東京の都市改造が進められる時期に対応し、その意味で古川は強い関心をもって視察を繰り返していた。旧市街の狭隘な市街地やバザールの喧騒、また郊外地の離宮の豊かな自然が彼の興味を惹いていた。また、旧市街の都市改造に際し、王宮周辺の狭隘市街地の一般家屋を除去しつつ、沿道に植栽を伴った大通りが建設されている様子が報告されている。これは典型的なオースマン式の都市改造といえる。パリやウィーンの都市改造について日本人が触れたのは、1873年の岩倉使節団が最初である(その記録である『米欧回覧実記』の出版は1878年)。また、日本で市区改正が開始されるのは1884年のことである。これらの状況と比較しても、古川のテヘランにおける実見は貴重なものであった。この使節団によってテヘランに入った日本の文物は一部が宮廷に納められ、それが今日のコレクションとなる。古川はシラーズからペルセポリス、イスファハーンを移動する際にドイツの言語学者アンドレアス(Friedrich Carl Andreas: 1846-1930)を雇い入れ、彼から古代ペルシャについて多くを学ぶ。彼はその2年後にドイツに帰国し、ニーチェの恋人であったルー・サロメと結婚し、それに絶望したニーチェが『ツァラトストラ(ゾロアスター)はかく語りき』を一気に書き上げた話は良く知られている。古川は加えてテヘランで活動していたインド人ゾロアスター教宣教師ハタリア(Maneckji Limji ― 646 ―― 646 ―
元のページ ../index.html#662