の移行を題材としていましたが、第二次世界大戦により破壊されます。この壁画についてシンケルは、『建築設計案集(■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■)』で以下のように述べています。[…]後方の壁にはフレスコで描かれた絵画を設置することが想定されており、その絵画の主題は建造物の用途とつながりをもつ。列柱越しに見られるこの絵画の効果が、建造物に明るい外観をもたらすはずである(注3)。ここからは、シンケルは博物館の目的を達成するために古代ギリシャの様式と壁画を用いたことが解釈できます。壁画はベルリンを古代ギリシャのような理想都市として象徴し、人々に教育を施すため用いられます。一方で、ポツダムのサンスーシ宮殿敷地内にある、シャルロッテンホーフ城および宮廷庭師の家やローマ浴場といった建造物では、ギリシャではなくポンペイ風の様式で飾られました。これらはシンケルが、当時の王太子、のちのプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世のために内装も含め設計した建物ですが、いずれも玄関の柱廊部分および建築の内部が鮮やかに彩られているのです。とりわけローマ浴場では、黒、赤地を基調とする壁面やモザイクによる動物の描写などから明確にポンペイ的な趣味をうかがうことが可能で、シンケルは古代のポリクロミーを学び、それを実践に移していたことがわかります。このことは、19世紀の建築家がギリシャ的な白い大理石だけでなく、ポンペイのポリクロミーをも含む、複数の古代イメージからなる装飾への関心をもっていたことを特徴づけます。また、よく知られているように、シンケルは絵画や建築にゴシック様式も用いています。建築家の要求や目的に応じて様式が選ばれたのです。このような様式選択と古代のポリクロミーの建造物への実用化は、当時のより大きな時代的潮流と連関しているとみられます。つまり、工業化と装飾芸術の発展により、ベルリンが当時プロイセン王国の首都として、美的な製品を生み出す能力をもち産業面でも優れた都市であることを対外的に示し、そして、イギリスやフランスに引けを取らない国家、都市として成長しようとしていたためでした。よく知られているようにシンケルは主に1815年以降、ベルリンの都市計画や建築教育、国王のための建築設計など重要な仕事を一手に引き受けます。こうした都市計画全体に関わる大事業と並行して、他の建築家や職人のための書籍の出版などを通し、工芸、産業の発展に与していたことも近年着目されています。― 661 ―― 661 ―
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