鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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シンケルらによる『製造業者と手工業者のための見本帳(■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■)』シリーズの刊行は1821年に始まりました。この『見本帳』には、さまざまな時代や地域の文様、建築、家具、食器などの工芸品のサンプルが版画で、カタログのように説明文付きで収録されています。製造業者や手工業者が美しい建築物や製品を作るため、どの様式を選択するべきかを決める参照源としてこの書籍が資することをシンケルは意図していました。類例としては、イギリスの建築家オーウェン・ジョーンズによる『装飾の文法(■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■)』(1856)が存在しますが、シンケルの例が先立っているところが興味深いです。シンケルの仕事は、フリードリヒ・アウグスト・シュテューラーら「ベルリン派」と呼ばれる後続の建築家に引き継がれます。シュテューラーもまた、ポンペイの古代建築と装飾を研究し、多彩色建築をシンケル以上に多用します。シンケルは多彩色建築に関するまとまったテクストを残していませんが、シュテューラーはポンペイの壁画に関する論考「ポンペイの室内装飾について(Über die Dekoration der Zimmer in Pompeji)」(1840)を著しました。ここでは、それぞれの色彩がもつ意味など、研究というよりもより実践的な内容が多く含まれます。1850年代にシュテューラーは、シンケルの博物館の裏手に新博物館を設計しました。旧博物館は展示室で壁紙を用いたものの、壁画までは設置しなかった一方で、新博物館の各展示室には、展示物に合わせた色彩豊かな壁画や文様がもたらされました。これらの壁画は、ニューヨーク近代美術館以降のいわゆる「ホワイト・キューブ」ではもはや見られなくなった、19世紀に特有の現象であるといえるでしょう。シュテューラーは新博物館のほぼ全ての内装を考案しました。しかしながら、博物館の建築は第二次世界大戦でひどく損壊を受けたため、のちにデイヴィッド・チッパーフィールドに再建され、2009年に再開館します。当時の壁画は今でも部分的に確認できるほか、シュテューラーの素描からも再構成が可能です。例えばシュテューラーが遺した「エジプトの間」のための図面には、イシス神殿のような、古代エジプトの著名な遺跡が描かれています。これらの描写はナポレオンによって出版された『エジプト誌(■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■)』や、カール・リヒャルト・レプシウスによる『エジプトとエチオピアの記念碑(■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■)』のような地誌学的文献の図版に影響を受けています。けれども、実際に制作された壁画の構図はシュテューラーによる本来の図面とは異なります。完成作では建築がより大きく、建築の細部はよりはっきりと認識可能です。この壁画は、いわゆる「建築画家」によって描かれました。彼らはベ― 662 ―― 662 ―

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