ルリン王立磁器製陶所(KPM)に所属し、多くの建築画を陶磁器のために描いた画家たちです。シンケルとシュテューラーは王立磁器製陶所の設立と運営に携わっており、完成作の壁画は建築画家の様式を反映しています。したがって、ここでも着目すべきなのは、ベルリンにおける建築と装飾がやはり産業や工業化と強い関係性をもっていたという点です。続いて、ミュンヘンでのプロジェクトについてお話しし、ベルリンとの関係性について検討します。特に主な対象となるのは、19世紀にミュンヘンで公共建築の設計に携わった建築家、レオ・フォン・クレンツェです。建築史家ヴィンフリート・ネルディンガーはクレンツェを、シンケルとは違って自身の才能を発揮できなかった建築家だと評します。そして、この二人の建築家の違いを「クレンツェは[バイエルン国王]ルートヴィヒ[1世]の意向を満たす従順な宮廷芸術家にすぎなかったのに対し、シンケルはプロイセンの官僚であった」点に見出しました(注4)。つまり、シンケルの建築においてはその先進性や近代性が評価されがちであるのに対し、一方でクレンツェにそのような指摘はなされず、ゆえにクレンツェはシンケルと比べ十分に研究がなされてこなかったとも述べます。また、クレンツェは古代の装飾を19世紀の建築で自在に使用することはなかったともみなされます。そうであるならばいっそう、クレンツェの仕事をシンケルとは異なる文脈から分析する必要があるでしょう。これにより、19世紀装飾史のもうひとつの展開をとらえる契機になりうるためです。クレンツェの仕事には彼の装飾論を特徴づけるものがあり、それらはベルリンの建築家のそれとは異なる方向性をもちます。クレンツェは古代彫刻館グリュプトテークを新古典主義様式で設計する以前、「トスカーナ神殿の再建に関する試論(Versuch einer Wiederherstellung des toskanischen Tempels)」(1821)と題する論考を発表しました。シンケルやシュテューラーのようなベルリンの建築家にとって、古代研究は古代の様式の利用や産業化へと発展しますが、クレンツェの場合は産業とのつながりというよりも、理想の追求といった側面が強かったといわれます。さらには、グリュプトテークは19世紀ドイツの公共建築建設の中でも、ベルリンの例とは異なる制作システムを示しています。1830年に開館したグリュプトテークの館内には、当初ナザレ派画家のコルネリウスによる天井画が設置されていました。ベルリンの旧博物館の壁画もコルネリウスによるものですが、先述の通りベルリンの壁画ではシンケルが自らほぼ全ての構想を準備したのに対し、グリュプトテークではクレンツェがナザレ派を嫌っていたにもかかわらず、コルネリウスの主導で壁画プログラ― 663 ―― 663 ―
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