殿させた混成顔料であった。一方アメリカでもノルウェーと同様に混成顔料を生産していた。チタン白に言及した戦前の研究書は少ないが、トックは1931年の著書でチタニウムホワイトの項を設けている(注3)。そこには「この顔料に関する説明はパーマルバの項目で十分であろう。」とあり、パーマルバの項には「酸化チタン顔料で市場には1921年から出ており、F.ウェーバー社で作られている。これは今日の画家が使っている白の中で最も知られている物で、約25%の二酸化チタンと75%の硫酸バリウムからなる。」とある。社主F.ウェーバー自身の研究書ではパーマルバについて「絶対的に不変で化学的に安定しており、最も不透明な白で絶大な着色力を有する。亜鉛華や鉛白を含まない。画家のパレットの白を置き換えつつある。」としている(注4)。この著書が出た1923年時点では追随を恐れてか、これがチタン白であることは秘せられている。またフランスでも純度の高いチタン白製造法が発明され、1920年代後半には混成顔料に加え純粋な顔料も供給が可能となっていった。2.日本におけるチタニウムホワイトの普及チタン白が海外で開発され、海外絵具メーカーから売り出された1920年代初頭から時をおかず、日本でもチタン白の絵具が輸入されていたと思われる。今回分析を行った作品のうち岡田三郎助の1924年の作品からこの白が検出されているからである(注5)。ところが、当時の国内の絵具の広告にはチタン白は出てこない。また、パーマルバは日本で流通した形跡がない。新しい白の登場が話題に上らなかったのであろうか。1929年発行の山本鼎『油画の描き方』に石井柏亭、岸田劉生、梅原龍三郎、牧野虎雄、岡田三郎助、安井曾太郎のパレットが紹介されている。特筆すべきは岡田三郎助で、白に「ブランドティタンヌ又はブランドザンク」とあり、唯一チタン白を挙げている(注6)。文献に現れるなかで最も早くチタン白を取り入れた画家であると思われる。1931年発行の『油絵新技法講座6』(注7)にも画家のパレットが紹介されている。足立源一郎、石井柏亭、伊藤廉、伊原宇三郎、梅原龍三郎、大久保作次郎、加藤静児、倉田白羊、黒田重太郎、児島善三郎、小山敬三、里見勝蔵、田辺至、津田清風、中川一政、鍋井克之、硲伊之助、平塚運一、牧野虎雄、正宗得三郎、三上知治、南薫造、安井曾太郎のうちチタン白を挙げている画家は皆無である。巻末には文房堂製、ニュートン製、ルフラン製の油絵具のカタログが掲載されているが文房堂とニュートンにはチタン白はない。ルフランからはチタン白が10号チューブ80銭で出ており(注8)入手は可能だったことがわかる。また、『油絵新技法講座2』の山下新太郎による絵具の解説ではチタン白が挙げられているが、「堅実な絵具ではあれど乾― 55 ―― 55 ―
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