ムが決定され全てのカルトンが描かれました。つまり、クレンツェの構想は壁画には十分に反映されておらず、自身の建築全てにおいて主導権を握っていたわけではなかったのです。このほかにも、レーゲンスブルクのヴァルハラもクレンツェ自身が設計をしましたが、新古典主義様式の外装に対して内部には近代的な鉄構造が用いられていたり、ルーメスハレの構想にはクレンツェが師として仰いだ建築家フリードリヒ・ジリーやシンケルの構想が取り入れられていたりと、さまざまな場合においてクレンツェの建築には、設計段階から複数の案が混淆している例が見受けられます。クレンツェがアルテ・ピナコテークを建設したのち、次世代の建築家フリードリヒ・フォン・ゲルトナーによるノイエ・ピナコテークが設計されました。これら2館もまた、いずれも第二次世界大戦中に損壊を受けましたが、とりわけその装飾は注目に値します。アルテ・ピナコテークの壁面および天井には、中世から近世までのイタリアとドイツに関する、ヴァザーリ風の絵画史がコルネリウスによって描かれました。さらにノイエ・ピナコテークの外壁には、カウルバッハが芸術のパトロンとしてのルートヴィヒ1世と、18世紀から19世紀にかけてのミュンヘンの美術史の成立を主題とした壁画が設置されました。カウルバッハの描いた内容は同時代の人々から通俗的でキッチュとみなされました。しかし、ここでも建築家はカウルバッハに指示を与えず、画中の芸術家や記念碑など、主題に関する細部はすべて画家が考案したとみられます。加えてカウルバッハは壁画の考案にあたり、もはや過去の様式を用いませんでした。外壁に設置するという手法にはシンケルの壁画からの影響が、そして構図にはルーヴル美術館の天井画に類する点が見受けられるものの、総合的な制作形態としては他に例を見ない特異な点がうかがえます。最後にまとめに移ります。この発表ではまず前提条件として、18世紀の装飾論に着目しました。ヴィンケルマンが装飾を「小さなもの」として忌避する一方、19世紀のベルリンではシンケル、シュテューラーら新古典主義建築家が装飾を建築に活用し、これが産業化や技術革命の趨勢に結びつくことで、彼らの設計した博物館では建築装飾へと発展します。ミュンヘンにおいてもこの現象は存在しますが、クレンツェやカウルバッハのようなミュンヘンの芸術家は、ベルリンとは異なった手法や意図に基づき装飾を利用しました。ベルリンとミュンヘンの例は、形は異なりますがいずれにせよ、ヴィンケルマンによる新古典主義の理念とは異なった側面を提示します。そういうわけで装飾は、多角的な面から古典を再び考え、価値を問い直す一つの観点となるでしょう。これで発表を終わります。ご清聴ありがとうございました。― 664 ―― 664 ―
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