を題とする発表を行った。報告者を含む四人の研究発表は、「請来美術の幻影:東アジアにおける異文化交流に対する新たな研究手法(The Mirage of Shōrai Bijutsu: New Approaches to Cross-Cultural Interaction in East Asia)」と題するパネルに属する。パネルの主旨は、一つの作品を研究対象とするというケーススタディを通して、請来美術が日本美術に影響を与えたという従来の言説を再検討し、より多様な視点から請来美術の探究を試みることである。また、パネルは、まず板倉教授が「請来美術」という用語の起源とそれに関する研究の進展を紹介し、次に扱う作品の時代順に沿って陳氏・単氏・報告者・高橋先生がそれぞれの発表を行い、最後にリピット教授がパネルの全体とそれぞれの発表に対してコメントするというかたちで進行した。板倉教授の指摘によると、請来美術は古くからあった用語ではなく、1966年に奈良国立博物館で開催された「請来美術」を題とする展覧会で初出したものであるという。こうした言葉は、それぞれ絵画・書と陶芸を中心に請来美術を紹介する『原色日本の美術』の第29冊と第30冊が1971年に刊行されるとともに、日本の学界に定着してきた。「請来」とは文字通り、請い願って外国から持ち帰ることを意味する。したがって、請来美術は東アジア文化圏における文化的な階層を示唆しているだけではなく、受け手としての日本側の意図をも反映している。しかし、請来美術にみられるこれらの現象は、歴史的な文脈、関係者間の関係、および個々の作品の状況によって大きく異なる場合がある。この三つの要素を考慮にいれることで、請来美術に対する新しい理解や認識を促すことができる、と板倉教授は述べられている。四つの研究発表のなかで、陳氏の発表は請来書跡を主題とするものであった。この発表では、陳氏は日本における王羲之の書の受容に着目した。正倉院に所蔵されている王羲之の書の模本と聖武天皇・光明皇后の書との関係性に重点を置いた先行研究に対し、陳氏の発表は、王羲之の書のデータベースとして機能していた「集王聖教序」の拓本が平安前期に日本へ伝わって宮廷周辺でどのように受容されたのかを具体的に明らかにした。とりわけ、嵯峨天皇をはじめとする宮廷の成員、および空海や最澄などの宮廷周辺で活躍した僧侶が、平安前期に相当する中唐の書風ではなく、初唐から盛唐まで再整理された王羲之の書風を受容したというタイムラグの現象を指摘したことが興味深い。単氏の発表は12世紀の日本僧である定円が描いた「伝法正宗定祖図巻」(MOA美術館)とその中国製の先行作例との関係性を論じたものである。先行研究では、「伝法正宗定祖図巻」は定円が、北宋時代に蘇州の万寿禅院で刻まれた石碑の拓本をもとに― 667 ―― 667 ―
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