して描いたものとされてきた。それに対して、単氏は、「伝法正宗定祖図巻」に描かれている禅宗六祖像が大理国の張勝温筆「梵像図巻」(台北国立故宮博物院)と北宋の至和元年(1054)に開版された版本を写した「達磨宗六祖図」に接近していると指摘し、「伝法正宗定祖図巻」が嘗て開封で描かれながらも現在失われた禅宗祖師図を手本とした可能性を示唆されている。報告者の発表は、入元した日本僧である黙菴が描いた「布袋図」(MOA美術館)の図像を再解釈することを目的とした。先行研究では、MOA美術館所蔵の「布袋図」における図像表現は、個人蔵の「布袋図」と類似していると指摘されている。しかし、布袋和尚の正体とされる弥勒仏に相当する空中の仏を指さした個人蔵本の布袋和尚像と異なり、MOA美術館本に描かれている布袋和尚像は、虚空を指さしていることが注目される。先行研究において論じられてこなかったこうした図像上の相違点について、報告者はMOA美術館本の制作に深く関わっていた「金剛幢下」という禅僧サークルの仏画に対する態度から弥勒仏の不在を説明している。つまり、黙菴は、仏画に描かれている尊格は尊格に等しくないという金剛幢下の理念に基づき、空中の仏を省くことで、布袋和尚像と弥勒仏の間に距離を設けたと解釈され得る。高橋先生の発表は、京都・東福寺の工房を率いた絵仏師である明兆が1368年に完成させた「五百羅漢図」とその範とされる大徳寺伝来の「五百羅漢図」との相違点に重きが置かれた。一幅に五尊の羅漢を描いた百幅本に相当する大徳寺本と異なり、東福寺本は一幅に十尊の羅漢を描いた五十幅となっている。そのため、東福寺本には、大徳本にある共通する主題を描いた複数の画幅のモチーフを援用して一幅を描いた現象がしばしばみられる。また、明兆は大徳寺本を参照しながらも、各幅に描かれている内容の一致性や説話性を高めたり、その図像表現を禅林の清規や禅寺の様式に一致させたりするために、大徳寺本を若干調整した部分もある。それだけではなく、東福寺本では、羅漢供を執り行う人物が東福寺を開いた円爾弁円の姿として表されていることも留意される。円爾の肖像の挿入は、東福寺本の完成を祝う仏事としての羅漢供が円爾の年忌に行われたことに関連している、と高橋先生は指摘された。以上の発表はいずれも日本製の美術品が中国製の美術品を受容した実態に迫ることを趣旨としている。請来美術に関する先行研究が、原本と模本との関係性を強調しているのに対し、四つの発表では、イメージがさまざまな人と物が巡り会う場に流通したという視点から、請来美術が日本美術史上において果たした役割を描いた、とリピット教授はコメントされている。リピット教授はさらにイメージを雲に、イメージが流通した場を、国境を越えた生態系に譬えられている。イメージは宛も生態系で移― 668 ―― 668 ―
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