動した雲のように、異なる国や地域でアクセスされ、再調整され、さらにローカライズされる。こうした見方の下に、従来、模本として位置づけられてきた作品は、異なる意味をもつ新たなイメージとして理解し得る。リピット教授はパネル全体の研究手法についてコメントしたのみならず、個々の発表に対しても質問した。まず、王羲之の書を集めて倣うという嵯峨天皇の行為は、唐の宮廷文化を見習う一環として理解し得るのか、陳氏に質問された。次に、「伝法正宗定祖図巻」の構成は、仏教経典の見返絵と何らかの関係性をもつのか、単氏に聞かれた。報告者の発表に関して、MOA美術館所蔵の「布袋図」にみられる、仏を省略することで布袋和尚像を弥勒仏と距離を置いたという表現手法が、「金剛幢下」に特有なものであるか江南禅林に共用するものであるか、という問いが挙げられた。最後に、東福寺所蔵の「五百羅漢図」における図像表現が大徳寺本と比べて禅林の清規や禅寺の様式とより一致していることを念頭に置くと、東福寺本が大徳寺本以外の作品を参照した可能性があるかどうか、高橋先生に質問された。当日には時間の都合上、報告者を含む四人の発表者がリピット教授の質問に答えることができなかったものの、報告者は研究報告を書くことを機会にこの質問に対して答えを述べる。関連作例が少なく現存していることから、仏を省略することで布袋和尚像を弥勒仏と距離を設けたという表現手法は、金剛幢下に特有なものであるかどうか、判断しにくい。しかし、こうした表現手法はたとえ江南禅林に共用したものであるとしても、それを援用して布袋図を描いたという黙菴の選択は金剛幢下の理念につながると考えられる。事実、南宋と元の布袋図には、多様な図像表現をもつ作例が含まれている。これらの布袋図は図像表現によって異なる図像の意味を伝えていることはいうまでもない。さまざまな布袋図の伝統の中で、黙菴が、布袋和尚が弥勒仏の化身であるという考えを視覚化した図像パターンを採用しながらも、弥勒仏とされる空中の仏を描かないのは、先述した金剛幢下の仏画に対する態度を反映していると解し得る。さらにいうと、金剛幢下に入った黙菴が、江南禅林に流通した図像パターンを取りいれて金剛幢下の理念を絵画化したという選択は、金剛幢下が江南禅林内部の禅僧サークルに相当することと無縁ではないと思われる。今回のシアトルへの渡航では、15日に口頭発表をしただけではなく、14日と16日に特別観覧を行った。14日にシアトルアジア美術館で常設展の見学、および当館所蔵の日中書画に関する調査を行い、16日に個人コレクター所蔵の江戸時代の南画に関する調査を行った。シアトルアジア美術館所蔵の中国絵画には、少なからず日本経由でアメリカに流入したものがあり、請来美術の一部として理解し得る。一方、個人コレク― 669 ―― 669 ―
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