鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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きの遅く、盛り上げがきかぬ大きな欠点がある」という低評価である(注9)。国産油絵具については1919年に文房堂から白色絵具が発売されたのが初めである。前年の11月に第一次世界大戦が終息しているが、ヨーロッパは疲弊し混乱していた。日本への絵具の供給も不安定なものになっており、『みづゑ』には「欧州戦争により製造元が出荷制限して品薄」とある(注10)。輸入絵具の不足が国産絵具の開発に拍車をかけたと思われる。使用頻度が高いホワイトの製造から始めたと思われるが、シルバー白とジンク白のみであり、チタン白の需要がなかったことが推察される。戦争の混乱が落ち着き、円高で輸入価格が下がると、舶来絵具の銘柄が急増する。『みづゑ』に掲載された広告をみると1921年にはニュートン、マダートン、ルフラン3社だったのが、1923年にはポールホワネ、アンボール、エドワール、シュミンケが、1924年にはローニー、ブルジョア、リネル、ブロックス、メーゾン、モムメン、ターレンス、ワグネル、1926年にはフロレンス、1927年にはロバートブランシュ、ヴィルメイ、リーブス、1930年にはレンブラントが加わり、百花繚乱の様相を呈する。『みづゑ』の記事にも海外メーカーの品質比較が出てきて、画家の関心が舶来製品にあることがわかる(注11)。ただし、その比較対照にチタン白はない。文房堂も色数を増やし、国産メーカーの参入も増え、桜油絵具、クサカベ油絵具、吉村商店(現ホルベイン)からヴェルネ油絵具が発売された(注12)。1932年以降、舶来絵具の広告は減っていくが、それを補うように第一絵具、レートン、アオイヤ、プランタン、マンヂ絵具など、国産メーカーが続々登場する。1933年日本は国際連盟を脱退し、孤立を深めてゆくことが絵具にも反映している。この時期から1950年までの日本の画材事情は独自の様相を呈することになる。チタン白についても同様である。チタン白顔料が海外で開発され、隠蔽力、着色力、耐酸アルカリ性、無毒性など、これまでの白色顔料をはるかに凌ぐ性能に着目し、国内でも生産販売を試みる企業が出てきた。1935年ドイツ企業との合弁会社チタン工業が創立し、ドイツ人技師の指導のもと1938年クロノス印チタン白顔料の生産を行うようになる。朽木化学工業、堺化学工業、日本砂鉄鉱業なども参入した。興味深いのは堺化学と日本砂鉄鉱業で、これらの会社は輸入原鉱のイルメナイトではなく、日本で古来たたら製鉄に利用されてきた砂鉄を活用しようとしたことである(注13)。砂鉄は資源の乏しい日本にあって、鉄とチタン、バナジウムなどを含有しており、明治期より資源が逼迫するたびにその利用が検討されてきた。砂鉄の利用は当初は鉄が目的であったと思われるが、堺化学が砂鉄から刀を作ったという新聞記事の見出しは「白粉滓から昭和正宗の名刀」となっており主従が逆転している(注14)。ジンク白の欠乏が端緒となって代替物とみ― 56 ―― 56 ―

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