鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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なされていたチタン白が出回るにつれ、塗料としての優秀さが認識されて需要が喚起されていった。日本外国貿易年表をみると、1934年に「酸化チタニウム」の項目が初出する。1934年には432,481斤であった輸入総量は1935年には1,062,635斤と倍増している(注15)。それが1939年には3,265斤、1940年には3,784斤と激減し(注16)、1941年からは項目が「チタン原鉱」へと変わっている(注17)。輸入代替が起きて原鉱を輸入しチタン白を自国で作るようになったのである。とはいえ、画家の無関心は相変わらずであった。石井柏亭は1937年発行の著書で「チタニウムホワイト(titanium white)と云ふ金属の酸化物から取った白が割合最近出来て来て居て、それが若し能書き通りならば他の白を凌駕することができる様である。これは日本にも輸入されて居たが、私はまだ試みることをしなかった。」と回想している。石井の言葉はチタン白に対する当時の画家たちの意識を代表するもののように思われる。最後の一文が過去形であることが気になる。1937年には輸入されていなかったように受け取れる(注18)。ところが、1937年の『みづゑ』の絵具の広告に初めてチタン白が現れる。初出の国産メーカーエトナ社の価格表である(注19)。7月に日中戦争が勃発し「非常時下輸入制限の油絵具 輸出奨励 まずホワイトを」というコピーは日本が戦時体制に突入したことを反映している。1938年の『みづゑ』にはホルベインのヴェルネ油絵具のカタログが折り込まれているが、そこにもチタン白が出ている(注20)。このカタログには古チューブ回収の呼びかけがあり、金属資源の不足が深刻化しつつあることがわかる。シルバー白とジンク白の原鉱である鉛や亜鉛、チューブの錫も重要鉱物として1938年統制の対象となり、国の一元的管理下に置かれるようになる(注21)。一方、この年にチタン工業が国産クロノス印チタン白の製造販売を開始しているが、塗料業界や繊維業界の旺盛な需要によってフル稼業状態となった(注22)。堺化学工業も1937年に生産量を倍増させる工場を完成させており(注23)、両社の社史を見る限りこの時点での原材料の逼迫感はない。煙幕や軍艦などの溶接棒の塗装としての軍需は高かったが鉛、亜鉛、錫などと異なり金属チタンそのものの活用は戦後を待たねばならなかった。逼迫の程度に差があったと思われる。1939年第二次世界大戦が勃発する。1940年日独伊三国同盟に調印したため、英米との対立が決定的なものとなり物資の輸入は危機的状態になってゆく。チタン白メーカーも増産に向けて計画していたインドからの原鉱輸入をイギリスから禁止され、タイに代替を求めるも長続きしなかった。1941年12月日本は太平洋戦争に突入し、潤沢な鉱物資源を有するマレーを支配下に置いたことで鉄や錫、チタン原鉱など一時的に資源の逼迫が緩和された。山下新太郎は― 57 ―― 57 ―

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