ないか、ピカソの作品そのものがなおざりにされてしまったのではないか、という疑念である。そうした実情を踏まえ、これまでに出版し、公開されてきた彼に関わる言説のすべてについて、その出典や典拠を明らかにする一方、ピカソ自身が語り、文章や詩作品にした文字資料のすべてを全収録して書籍化することを考えている。「ピカソの革命とは何だったのか」。これらの文字資料は、絵画や彫刻といった表象作品を補完すると同時に、それとは別の角度からのピカソ像の構築に資するに違いない。本調査研究は当初の考えでは2022年秋、モスクワとサンクトペテルブルク両都市の諸美術館において所蔵の、シチューキンやモロゾフがロシア革命以前、20世紀初頭にパリで熱烈に蒐集した秀逸な近代絵画のコレクションを現地調査する予定であった。2016年秋にルイ・ヴィトン財団で開催された『近代美術のアイコン』展(注1)で詳しく紹介されたように、マティスおよびピカソの作品と、それらが秘蔵されていたサンクトペテルブルクにあるシチューキンの旧宮殿、トルベツコイ邸内を探訪して絵画が装飾されていた当時の部屋の情況や絵の飾り方(例えばマティスの「ピンク・ルーム」に対して、ピカソの「黒い独房」といった呼称など)、それらの機能などの調査により、いまだ草創期にあったマティスとピカソの両芸術相互の影響やライヴァル関係を実証してみたいとの構想があったからである。しかし、2022年2月24日、ロシアがウクライナ侵攻を始めて戦争が泥沼化し、ロシアでの調査は現実的に断念せざるを得なくなった。そこで新たなテーマとして浮上したのがマドリードとパリでのピカソ作品の再確認、ピカソ「彫刻の時代(1928~1932)」の研究、そしてアトリエという制作現場への訪問である。マドリードでピカソの作品を多く観ることはできない。感受性が鋭敏な青春時代、王立サン・フェルナンド美術学校に在籍しながらも、むしろ彼が学んだのはプラド美術館での作品群であった。その意味ではピカソ作品がそこにはなくとも、プラドの存在は軽視できない。しかもスペイン内戦勃発の直後、共和国政府からプラド美術館の館長に任命されたこともピカソとプラドとの間には因縁じみた関係性を感じさせる。そうした中で、反戦と平和の記念碑《ゲルニカ》がスペインの首都、国立レイナ・ソフィア芸術センターに展示されている事実は測り知れないほどの意味を持っているだろう。しかし「オデュッセイア・ゲルニカ」として語られるように、内戦の終結後、ニューヨークの近代美術館に永久貸与された後、1981年の返還までには40余年を要したのだ。その間、「内戦難民救済キャンペーン」のプロパガンダとしてピカソ同様、亡命者のごとく全米や世界各都市を巡回したために今日、作品は劣化してしまい、悲惨な状態にある。《ゲルニカ》が門外不出とされる最大の理由である。しかし、《ゲル― 684 ―― 684 ―
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