ニカ》が1937年の万国博閉幕後、そのままパリに留まり、第二次大戦中のナチス占領下に置かれていたらどうなっていただろうか。ひどく傷んでしまうとはいえ、大西洋を渡ってアメリカに運ばれたことは幸運だったと言うべきだろう。レイナ・ソフィアで、モノクロームで描かれた巨大なこの絵の前に立てば、激しいエネルギーとともに不思議な沈黙にも誘われる。さらに、ゲルニカ爆撃という歴史的現実を完全に無視したピカソ一流の寓意的な構想にこそ、時と場を超えて生き続ける《ゲルニカ》の秘密があるのではなかろうか。一方、パリでは国立ピカソ美術館を中心に多くの作品を観る機会を得た。ピカソ研究のセンターでもある同館では、折しもイギリスのデザイナー、ポール・スミスを芸術監督に迎えての特別展『新たな光でのコレクション』(2023年3月~8月)を開催していた。何よりも眼を奪ったのは1930年代の絵画作品の鮮烈な色彩であった。そして同時に、「記憶の中の絵画」というイメージは劣化していくものだという思いを痛切に体験したのである。コロナ禍もあってもう何年もピカソの主要作品と直に対峙していなかったからだ。我われは研究する際、机上で画集や図版を用い、パソコンの画像をとおして作品と向き合おうとするが、そこには危険な落とし穴が潜んでいることに無自覚的であるだろう。オリジナルと真直ぐに向き合ってのアプローチ、その感動を基盤にしてのオーソドックスな作品研究が美術史の原点であることをすっかり忘れてしまっていたのだ。このことは特に若い美術史学徒に申し上げておきたい。ピカソ「彫刻の時代」は前半(1928-1930)と後半(1931-1932)では、そのスタイルはもとより用いた素材(金属彫刻に対して、塑造とそれを基にした石膏彫刻)も対照的なものである。この違いをウィリアム・ルービンのように(注2)、前半は硬質で神経質な妻オルガ、後半は従順でしなやかな性格と肉体の愛人マリー=テレーズというモデルの違いのみに帰させることはできないが、それでも一部には説得力もあって完全に否定することはできないだろう。また、ピカソがマリー=テレーズを見初めた時期に関しては、1927年1月という従来の定説に対して、1980年代後半から「それ以前ではないか」との異論がかなり流布したものの、2000年以降、特に最新刊行の精確なマリー=テレーズの伝記においても1927年1月邂逅説が支持されている(注3)。ピカソはマリー=テレーズをモデルにした彫刻に専念するために、1930年6月、パリ北西部、ジゾールの南郊に古びたシャトーを獲得する。城館ボワジュルーである。独創的な石膏彫刻のなかでもグループ中で最大の、最後に手がけた《女の頭像》〔図1〕はピカソ自身、傑作として気に入っていたようだ。同城館内厩舎での制作や作品はこれまでブラッサイの写真でしか知られていなかったが、近年、制作途上にある胸像や― 685 ―― 685 ―
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