頭像について、おそらくピカソ自身の手で撮影された写真が他にもあることが遺族(Bernard-Ruiz Picasso)の手で公開された(注4)。これら未公開だった写真の調査で、ボワジュルーでの彫刻制作が試行錯誤を重ねた末の成果であることが明らかになったのである。若き頃からの盟友で偉大な詩人、作家のギヨーム・アポリネールとピカソとの親密な交遊において気がかりだった問題が一つある。それは1918年11月のアポリネールの死後、ピカソはこの夭折した盟友に対して、彼を称えるための記念碑のプロジェクトを何度か鉄棒彫刻などをとおして試みたが、保守的な追悼委員会の反対にあい、結局のところ完成することはなかった。その代わりに、1959年、ブロンズに鋳造された大きな頭像《女の頭部(ドラ・マール)》がピカソの同意のもとにパリ、サン=ジェルマン=デ=プレ聖堂脇、ローラン・プラシュ広場(墓地)に設置されることになった〔図2〕。6月5日の除幕式にピカソは、南仏ヴォーヴナルグ城に滞在していたこともあろうが、臨席する気は毛頭なかった。記念碑の正面に「ギヨーム・アポリネールに、1880-1918」、左側面に「パブロ・ピカソによるこのブロンズ彫刻は、彼により友人ギヨーム・アポリネールのために捧げられた。1959」と刻まれている。ピカソは引っ越し魔であった。青年期バルセロナ時代だけでも10回以上アトリエを変えたし、その生涯においては住まいを30か所以上、都市やパリ郊外、リゾート地を転々としている。それはある意味で、流浪の民ロマ(ジプシー)と似ていなくもない。パリに限ってみても、1904年春、モンマルトルの丘の中腹、ラヴィニャン通りの袋小路に建っていた通称「洗濯船」に定住して以降、1930年代後半から大戦中、ドイツ占領下で暮らしたグラン=ゾーギュスタン通りのアパルトマンまで、アトリエ兼住居を10か所近くも変えていたのである。ピカソは、個人的生活から社会の環境、時代の趨勢までも作品に反響させる芸術家であるから、作品が生まれた環境を訪れることは重要なフィールドワークだと言えるだろう。ピカソは、未完の作品を置いたままの無雑作なアトリエのたたずまいをしばしば写真に記録しているが、モデルを前にしたピカソ自身とその制作風景の写真は一枚も残されていない。マティスなどと比べても不思議なことである。今回の調査では、新古典主義時代のフォンテーヌブロー、「彫刻の時代」のボワジュルーにまで足を延ばすことは残念ながら叶わなかった。しかし、興味深かったのはラ・ボエシ通り(23番)である。通りは確かにシャンゼリゼ大通り(アヴニュ)に注いではいるものの、1918年に妻オルガとの新婚生活のために購入したというので鳴り物入りの高級アパルトマンをイメージしていただけに、意外とシンプルなその外観には裏― 686 ―― 686 ―
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