鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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「馬来の錫ですか、おかげさまで絵具屋さんの話だと、今月は錫を少し頒けて呉れたと言ひます。」と語っている(注24)。1942年、木村荘八が代表となり美術家連盟が商工省に働きかけて原料を調達し、画家、化学者、絵具メーカーが協力して絵具の配給を実施する。まず逼迫していた白の配給が実施されるが、シルバー白、ジンク白に加えてチタン白を配給することが決定された(注25)。無関心だった画家たちがチタン白を手に取ることになったのである。チタン白を含めることを提案したのは山下であった。山下は1943年出版の『絵の科学』で「硫化水素に会うも黒変しない。しかし乾きのおそい点はジンクと同じ程度のものである。」と10年前よりは多少評価を上げている(注26)。岡鹿之助は「木村荘八氏の『連盟の経過』を読むと、チタン白の提案者斯界の権威山下新太郎氏であるといふことであるが、ヒラーも亦、堅牢色の中にチタニューム・ホワイトを加へてゐるのである。シルバーやジンクの原料入手に困難な折柄、チタニューム・ホワイトの出現を我々は楽しみにして待つ。」と言っている(注27)。ここにあるヒラーとはHilaire Hilerで、1934年発行の著書にて1930年のウインザーアンドニュートンでは製造していないチタン白を絶対不変色のリストに加えると記している(注28)。木村の記事には山下の提案を支持しチタン白を融通するのは、亜鉛や鉛白が入手困難であることだけでなく、もしシルバー白やジンク白が充分あったとしてもチタン白はチタン白としての用途特徴が認められるからで、ましてチタン白の原材料が困難なく入手できるからとある(注29)。チタン白を代用品と考えずに使用を前向きに捉えようと画家に呼びかけているように思われる。原材料が困難なく入手できるというのは、マレーの原鉱に加え、日本にある砂鉄の利用が期待されていたものと思われる。砂鉄に含まれるチタンの量はイルメナイトと比して低く、顔料に使える品質のチタン白ができていたかは疑問であるが、日本砂鉄鉱業の営業報告書をみる限り、1931年から1949年に至るまで製品に挙がっている(注30)。顔料はほぼすべて輸入に頼っていた状況を考えると、数少ない自給の希望が持てる顔料であった。木村荘八の『連盟公報』は美術家連盟が解散する1943年8月まで絵具の配給について報告している。引換券と交換で絵具を購入でき、ホワイトは二本購入できた。好きな白が購入できるとは限らず、チタン白を希望に反して手にした画家もいたと思われる。その後日本は南方における支配権を失い、国内の企業も原材料の途絶、徴兵による労働力不足、さらに空襲による罹災により生産活動は崩壊してゆく。文房堂やホルベインの工場も同様であった。戦後1947年にGHQが対日経済封鎖を緩和し、民間貿易が制限付きで再開されたが1950年代初頭まで舶来の優良な顔料や絵具は入ってこなかったと思われる。― 58 ―― 58 ―

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