鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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注⑴ R.J.ゲッテンス、G.L.スタウト、『絵画材料事典』、美術出版社、1973年、p. 158。⑵ 『東邦チタニウム25年史』、東邦チタニウム株式会社、1981年、p. 2。⑶ Maximilian Toch, ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, D. Van Nostrand Company, 1931, p. 122, p. 113.⑷ F. Waber, ■■■■■■■ʼ■■■■■■■■■, D. Van Nostrand Company, 1923, p. 99.⑸ 岡田三郎助『少女読書』1924年、佐賀県立美術館所蔵。⑹ 山本鼎、『油画の描き方』、アルス、1929年、p. 59 初出は雑誌『アトリエ』1926年5月号。⑺ 『油絵新技法講座6 油絵沿革篇』、アトリエ社、1931年、pp. 93-116。⑻ 前掲、pp. 121-129。⑼ 『油絵新技法講座2 技法・材料論』、アトリエ社、1931年、pp. 53-54。それが半乾きのときに渇筆で固有色をのせてゆくという技法を編み出した。チタン白を用いると、重ねた色が鈍くなってしまうと思われる。1950年に山下は岡にあてて、アンボール社の依頼で絵具を輸入したから希望の絵具があれば注文をという書簡を送っている(注32)。その白のリストにはチタン白があったが自身のパレットに加えることはなかったようである。むすび日本においてチタン白は戦争と歩みを同じくして登場し普及した絵具であった。1920年代はルフランなど一部の海外メーカーの絵具を岡田三郎助のようなごく限られた画家が使用するに終わったと思われる。1930年代後半になると舶来絵具の販売ラインナップにもなかった可能性もある。それと入れ替わるようにチタン白顔料の国内生産体制が成立し、国内メーカーによる国産のチタン白油絵具が登場する。最初にカタログに挙げたのが比較的後発の絵具メーカーであったことは興味深い。その時期は1937年頃からと思われ、戦時体制の本格化による従来の白色顔料の逼迫に伴うものだったことは疑いようもない。多くの画家が初めて使ったチタン白は配給による国産品であったと思われる。その後の画家の反応は様々で、山下新太郎や岡鹿之助のように絵具の堅牢性に詳しい画家が推奨しながらも自身は使わなかった例、梅原龍三郎のように戦争をきっかけにチタン白を手にして、絵具と自身の画風との親和性を感じ戦後も使い続けた例、藤田嗣治や安井曾太郎のように戦前戦後を通じてほとんどチタン白を使わなかった例などがある。そのような画家たちのなかで松本竣介はこの強力な白を使いこなし、油絵ならではの透明、不透明を活かした重層的表現に結びつけたことは特筆に値すると思われる。― 60 ―― 60 ―

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