鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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⑦ 長山孔寅の牡丹表現に関する考察研 究 者:吹田市立博物館 学芸員  河 島 明 子1.はじめに長山孔寅(1765~1849)は江戸時代後期の大坂画壇で活躍した画人である。出生は出羽国(秋田)であり、呉春(1752~1811)と親交があった秋田藩儒・村瀬栲亭(1744~1818)の仲介によって上京して呉春に学んだ。孔寅が上京した時期は、天明4~5年(1784~1785)、孔寅が20~21歳頃、呉春が33~34歳頃であるとされ、そののち享和元年(1801)から文化3年(1806)の間に孔寅は拠点を大坂へ移した(注1)。40歳前後という画人として多分に熟達した頃であり、大坂での孔寅は三条茂佐彦という名の狂歌師としても活躍し、狂歌本の挿絵にも腕をふるった。大坂に四条派を広めた画人ともされ、息子の孔直(1803~1862)のほか、弟子に上田公長(1788~1850)、上田耕冲(1819~1911)がいる。ただし公長は呉春、松村景文(1779~1843)に師事したという説もある。孔寅が呉春門下に身をおいて四条派の画風を習得した期間はおよそ15年間である。確かな師弟関係を示す作例も残るものの、孔寅には呉春にあまり見ない画題もある。その一つが牡丹図である。朝岡興禎(1800~1856)による江戸後期の画人伝『古画備考』では、孔寅の牡丹図について言及し、「清澹」、すなわち清らかで淡いと評している(注2)。さらに、多様な作品を残した孔寅のなかでも牡丹図は評判だったようで、特に地元秋田では「孔寅牡丹」と讃える文献が散見される(注3)。孔寅の伝記、款印、作品に関しては、田中敏雄氏による先行研究(注4)が極めて詳しい。その他においても大坂画壇研究は近年大いに進んではいるが、孔寅を画壇で活躍した一人の画人として取り上げ、牡丹図について孔寅の画業を象徴する例として言及することはあっても、牡丹図が横断的に比較検討されたことはない。そのため本研究では牡丹図について作例を挙げ、関連資料等との比較をおこない、孔寅が描く牡丹について考察を試みた。ここに報告する。2.長山孔寅が描く牡丹の作例大坂に四条派をもたらし人気を博したと伝えられる長山孔寅の作品は世にあまたあるだろうが、確認できるものは決して多いとは言えない。画題としては人物図及び人物を含んで描いた遠景の山水図が多く、次いでは草木図だろう。鳥類など生きものを描いた図は多いとは言えず、花鳥画はわずかである。草木図のうち、部分的にでも牡― 64 ―― 64 ―

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