(個人蔵)で確認したとおり、枝ぶりや花の開き方において差異を加えていた。これを基本としながら、後者は画帖や画巻という形態に合わせたアレンジや切り取り、さらに他のモチーフによる構成を配慮したバリエーションである。ここでさらにもう一例、調査を行った単独の牡丹図を挙げたい。柴田是真筆《粉本 孔寅写 牡丹》(一幅 紙本着色 縦80×横39.8cm 制作年不詳 東京都江戸東京博物館蔵)〔図4〕である。本図は孔寅筆ではなく、柴田是真(1807~1891)が孔寅の牡丹図を写したものである。やはりこれまで確認した孔寅の牡丹図の特徴をもち、赤紫もしくは赤茶系の大輪を黒で描いた一株の牡丹に孔寅の款印を描き入れている。なお、本図の元となった孔寅の牡丹図は、今回の調査では確認できなかった。是真は江戸時代後期から明治時代中期の絵師であり蒔絵師である。是真は江戸で四条派を学ぶが、天保元年(1830)に京都へ趣いて岡本豊彦(1773~1845)の弟子となった。豊彦は孔寅と同じ呉春門下だが、このとき孔寅は66歳であり、大坂を拠点としていた。京時代の是真は頼山陽(1781~1832)を尋ねた記録があるため当時の文人のネットワークを通じて孔寅と接点を持つことはできただろうが、確かな記録はないため判然とはしない。ただ何らかの機会に是真は本図の元となった孔寅の牡丹図を目にして関心を持ち模写をおこない、それが今日「柴田是真絵葉手控類」と称する下絵コレクションを構成する一点として現存している。本図は、孔寅の典型的な牡丹図がさらに一例存在し、同時代の画人の関心にも値したという事実を示している。3.長山孔寅が描く牡丹の特徴中国原産の牡丹は「百花の王」と称えられ、中国文化への憧憬とともに富貴のシンボルなどとして古くから絵画や工芸品にあらわされてきた。単独で描くこともあるが、一般には他の動植物とともに花鳥図や草木図を構成する一つの要素となることが多い。孔寅にもその類の例があることは前章において確認したとおりだが、牡丹のみを類似する構図で描く作例が複数確認できる点は、まず孔寅の牡丹図において大きな特徴である。次に技法を確認すれば、孔寅は枝葉に付け立てを用いていた。墨の濃淡のみで花弁を表現することもあるが、紅白の花弁とその周辺には輪郭線を施している。これらの技法の組み合わせは呉春の草木表現にも例があり、特異なことではない。ただし、付け立てによる枝葉の表現には着目すべきである。牡丹のみならず枝葉を描くとすれば、風を感じるような動きのある描き方が大抵なされる。枝を動的に描かない場合にも、葉は、表を見せるもの、裏をみせるもの、翻って表裏をみせるものなど、一枚ず― 68 ―― 68 ―
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