があったことをあらためて指摘する。1 版画彩色師の台頭まず、版画彩色師が専門職として確立する経緯を略述しておきたい。版画黎明期以来の彩色木版画は、15世紀末以降、徐々に単色の銅版画に取って代わられたが、実際には単色の版画が、元の版画制作者らの本意か本意でないかにかかわらず、しばしば手彩色された。元来、彩色は版刻や刷りの工程と同じく、版画制作の一環であったが、単色の状態を完成と捉えるようになるにつれて、版画に対する彩色は任意の付加的な行為となっていった。そこで、単色版画に対する彩色を専門で請け負う者が現れはじめた。新興職業である版画彩色師は既存のギルドの規制に縛られず、自由に開業することができたとされる(注9)。そうして西欧各地で次第に版画彩色師が乱立していく中、例えばニュルンベルクでは(注10)、すでに工房を営んでいる版画彩色師が競争の激化を抑えるため、新規参入者を制限するあらたな規制を設けようと、15世紀後半から16世紀半ばにかけて裁判所に繰り返し陳情した記録が残っている(注11)。同地においては遅くとも16世紀後半には、ひときわ優れた版画彩色師の手になる彩色が、ある種ブランド化していた。1511年作のデューラーのエングレーヴィングに、1585年にハンス・マックが彩色を施した作品はその一例である〔図1〕。金や銀を含む高価な顔料をもちいて緻密に彩色された画面の右下には(注12)、版画彩色師自身のモノグラムと彩色をした年が筆で書き込まれている〔図2〕。注文主は、「AD」のモノグラムによってデューラーが作者であることが明示されている版画に、版画彩色師ハンス・マックが彩色をし、その証として「HM」のモノグラムが加えられたことで、元の単色の状態に比べ、作品の価値が高まったと考えたにちがいない。ニュルンベルクの版画彩色師による画中への署名と年記の挿入は、一過性のものではなかった。ハンス・トーマス・フィッシャーとその弟子マグダレーナ・フュルストが、17世紀前半のオランダで活動したニコラース・デ・ブラインのエングレーヴィングに対し、1670年代に彩色を施した作品が(注13)、少なくとも6点現存している(注14)。デ・ブラインが1619年に制作し、1672年にフュルストが彩色を施した例〔図3、4〕では、前景の直立した犬の首輪には金の絵具で「16MF72」との署名と年記があるが、彩色のない別の刷り〔図5、6〕と比較すると、首輪は版刻されていないことが確認できる。つまり、フュルストは単色の版画に彩色し、自らの署名を加える際に元の意匠自体に改変を加えたのである。― 75 ―― 75 ―
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