また上部には、1619年作で図案、版刻ともにニコラース・デ・ブラインによるものであることを示す「Ni. de. B. Inventor et Sculp 1619」というインスクリプション〔図7、8〕があるが、フュルストが彩色を施したものは、絵具で覆われていてほとんど判読できない。前出のハンス・マックの例では画面の隅々まで筆を入れつつもデューラーのモノグラムを侵しはしなかった一方で、フュルストはデ・ブラインの元の署名さえも覆い隠してしまっているのだ。凝視すればエングレーヴィング特有の細密な刻線を看取しうるものの、全面に彩色が施されたこの作品が、裏打ち、額装の上、壁に掛けられていたとすれば(注15)、当時の観者は一見しただけでは板絵と見紛えた可能性がある。したがって、この作例においては、彩色の実際の目的がどうであったかは別としても、少なくとも結果的には、彩色によって元の単色のエングレーヴィングが板絵に似たイメージとなったことは否定しがたい。2 地図に対する彩色の必然性絵画化が第一の目的ではない可能性が高いものとして、地図に対する彩色について検討する(注16)。16世紀のフランドルに続いて、17世紀のオランダでは、多くの地図が銅版画で制作され、しばしば彩色された(注17)。まず、地図が絵画よりも版画で表されたことには合理性がある。地図における、装飾部を除く地形の造形描写は、測量技術の高まりとともに、芸術家の自由な創意が介入する余地が少なくなっていった。地図に対して客観的な正確性を求めれば求めるほど、同じ形であることが重要であり、ひとつの原版から同一イメージを量産できる版画こそが、そのメディアとしてふさわしかった(注18)。そして、その刷られた地図に彩色が施されるのは、地形や領域の視認性を高めるためには、必然の行為であったにちがいない。ほとんどの地図製作者は、単色の地図に加え、あらかじめ彩色をしたものも販売した。彩色は自ら行うこともあったが、多くの場合専門の彩色師に委託した(注19)。また、単色の地図の購入者は、後から彩色を依頼することもできた。地図には実用性が求められた一方で、その装飾性にも価値が置かれていた。画面を縁取ったり、文字を飾ったりするだけではなく、船や海の怪物、動植物、寓意像などが非常に細かく描き込まれ、そうした装飾に例えばデューラーの版画のような既存の版画のイメージが借用されることもあった(注20)。したがって、単に領域の境界線に沿って塗り分ければいいわけではなく、彩色の質には、彩色師の力量が大いに反映された。― 76 ―― 76 ―
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