また、仮にそのような地図イメージの内外の余白の挿絵を切り取って見たとき、そのイメージはときに地図とは分けて扱われる、単独の版画そのものである。「地図」と「版画」の区別は、いわゆる「アトラス」とそこに収められた版画に目を向けたとき、一層曖昧なものとなる。3 「アトラス」収載の版画に対する彩色ゲラルドゥス・メルカトルが構想し、1585年から1595年にかけて分冊で出版された世界地図の最後の巻は、地図帳のタイトルとしてギリシア神話の巨人神アトラスの名が用いられた最初の例である(注21)。以降「アトラス」は地図帳そのものを意味する言葉となり、17世紀オランダの多くの地図帳のタイトルもこれに倣った(注22)。しかし、地図帳と言っても、常にあらかじめ製本されていたわけではなかった。それぞれの頁は、裁断されず、折られず、刷られたままの状態でも販売された。購入者は、マクリの状態の地図をキャビネットやアルバムに収めたり、壁や家具に飾ったりすることができたし、綴じる場合は、順番を並べ替えたり、別の版画を追加したりして、独自の「アトラス」をつくることができた(注23)。また、既述のとおり、版画彩色師に自由に注文することができたため、あえて単色のものを購入して、それから好みの版画彩色師に彩色させることもあった。ヨアン・ブラウが1662年に出版した『大アトラス(Atlas Maior)』は約600点の地図を含む11巻から成っていたが、アムステルダムの法律家で版画や書籍の収集家だったラウレンス・ファン・デル・ヘムは、そこに別の地図や版画、素描などを大量に追加し、図版2400点以上の全50巻にまで拡張した。さらにそれらは10年以上かけて、アムステルダムの版画彩色師ディルク・ヤンスゾーン・ファン・サンテンによってすべて彩色された(注24)。例えば、1635年にヨアンの父ウィレム・ブラウが製作し、『大アトラス』にも収載された「アジア図」〔図9〕を見ると、ファン・サンテンによって高価な顔料をふんだんにもちいて彩色されているのがわかる。スタンフォード大学所蔵の作例〔図10〕など、現存するほかの逸名の版画彩色師の手になるものでは、文字にまでは彩色されていない場合が多いが、ファン・サンテンは部分的に文字を金で強調している。ファン・サンテンは自身の彩色した版画に署名しなかったとされているが(注25)、彼は版画彩色師としてよく知られていたようだ。1711年、フランクフルトの書籍収集家ツァハリアス・コンラート・フォン・ウッフェンバッハは、弟とともに、ラウレンスの娘アハータ・ファン・デル・ヘムのもと― 77 ―― 77 ―
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